――ここまで純粋な気持ちを抱いたのは、生涯はじめてかもしれない。ここまで純粋な気持ちを抱くのは、生涯最後だと思う。
名前の分からない、けれど透明で美しいこんな気持ちを。
――こんな薄汚れた血にまみれた自分が抱くなど。いっそ滑稽で反吐が出るのに。
現在地、サンマイト平原西部、川の近く。セフィラを手にした一行は、これから――おそらくルシファーの元までつながっている、モーゼルの古代遺跡の奥を目指す。
ごそり、脇で蠢いた気配にアルベルの意識が浮上した。
町にいればともかく、こうして野宿している時の彼の眠りは浅い。完璧に寝入ったようでいて彼自身そのつもりでいて、ある程度の半径内にいる気配を常に探っている。――あるいは、幾度か死線をかいくぐった人間ならそれは当然のことではあるのだが。
「……」
そうして、寝入ったふりをして薄く開いた深紅が、むくりと起き上がってさらりと青髪を掻き上げる、苦々しい表情を浮かべる華奢な女を映した。手櫛で髪を梳いて落ち着きなく襟元をいじくって――胸元をぎゅっと握り締めると、ひどくつらい顔をして目を伏せる。
「……っ」
泣きそうな顔で、しかし涙はこぼさずに。むき出しの傷口を必死でかばう、哀れな姿。
「――……」
アルベルは何も言わずに目を伏せた。
普段が折れそうなほどに強い分、彼女のそんな姿が余計に痛々しくて、見ていられない見ていたくない。
「……どうした」
そうして待っていても一向に気配は動かないので。ややあって、たった今寝ぼけて起きた風を装ったアルベルは身体を起こした。わざとらしくあくび混じりに髪に手を突っ込んで、そうして――そのころにはいつもの冷静な風を装う彼女を、とろんとした寝起きの目で見つめる。
「何かあったのか?」
「――何も」
さりげなく周囲を確認してから。
首を振るマリアを、アルベルは引き寄せた。バランスを崩しかけた細い身体に腕を回して、強く抱きしめる。抱き潰さないように気を配りながらも、強く強く。
「な、に……っ、アルベル……!?」
「――別に何もしねえよ。警戒してんじゃねえ」
「何も、って……ちょ、くるし……っ」
加減を間違えたかと、かすかに力を抜いて――この隙に逃げようとした、その細い首筋に唇を近付ける。言葉通り触れはしない、けれどきっと吐息がかかったせいで、華奢な身体がひくりと跳ねて――そのままの距離を保てば、やがて落ち着いたのかゆっくりと強張りが消えていく。
「……何よ、もう……」
「――うるせ」
「嫌な夢でも見たの?」
「んなこたねえよ」
ささくれ立った雰囲気が少しは和らいで、苦笑ではあっても口元がほころんで。そんなマリアにアルベルは息を吐く。
ひくん、抱きしめた身体がまた跳ね上がった。
何かを言ってやりたかったけれど、言うことを思い付かなくて。
アルベルはただゆっくりと青い髪を撫でる。指の間を擦り抜けていく感触がくすぐったくて心地良くて、しかし捕らえどころのないその感触がどこか不安で。夜気に冷えた細い肩にやがてぬくもりが戻るまで、アルベルはただ黙ってそれを続ける。
「……夢を、見たの……」
「お前が、か」
「ええ」
――やがてぽつりとマリアがつぶやいた。おずおずと細い指が彼の服を握り、つんとした抵抗にアルベルはなんとなく安堵する。自分が触れるだけではなくて、彼女から触れてきて。そのことになんとなく安堵する。
「私の前からみんなが、パーティのみんなやクォークのみんなが、両親が……あなたが、消えてしまう夢。霧みたいにゆっくり空に消えていくの。誰もいなくなって、木も草も音も、何もかも消えていって、真っ白な何もない空間に私だけが取り残される、そんな、夢……。
夢の中の私はそれが夢だと分かっていて、でも不安で怖くて、」
儚く笑う、そのマリアこそ今にも霧散して消えてしまいそうで。アルベルはただ眉を寄せた。――そんな彼に、彼の頬に手を伸ばしたマリアが困ったように微笑む。
「夢、よ。……分かっているの。色々あって疲れていて、これからに不安ばかりがつのって……だから見た、単なる夢。私はここにいるし、あなたもここにいる。消えたりなんかしないし、――させないわ」
だからそんな顔をしないで。
もう一度儚く笑って。アルベルの首に細い腕が回って、きっと彼女の精一杯の力が、その腕にきゅっとこもる。引き剥がそうと思えば簡単にできる、脆い身体の華奢な束縛。
アルベルはただ目を閉じる。
強い彼女が見せる弱い姿が。どうしようもなく切なくて、いとおしくて。何もしてやれない自分が悔しくて。
――ここまで純粋な気持ちを抱いたのは、生涯はじめてかもしれない。ここまで純粋な気持ちを抱くのは、生涯最後だと思う。
名前の分からない、けれど透明で美しいこんな気持ちを。
――こんな薄汚れた血にまみれた自分が抱くなど。いっそ滑稽で反吐が出るのに。
細い肩にいつしか温もりが戻っていて、けれど何も言えないアルベルはただマリアの青い髪を撫でていた。さらさらと指の間を流れていく、絹にも似た極上の感触。くすぐったくて心地良くて、しかしやはり不安を掻き立てる。
「――大丈夫よ、アルベル。私はここにいるし、消えたりしない。ルシファーは倒せるし、そうしたら全部元に戻るわ」
言葉の途切れた耳に、風に揺れる葉擦れとささやかな虫の音。
首に回った細い腕、穏やかにきっぱりと言い切る、耳に優しい細い声。最初に不安に囚われたのはマリアの方なのに、いつしかアルベルの方がなだめられている。
「阿呆。んなことハナから心配してねえよ」
「そうかしら」
きゅっと力が入ったと思ったら、急に腕が離れて。驚いて瞬いて、そんなアルベルにくすくすと笑って、
「全部、カタが付いたら――あなたはどうするの?」
――まだ来ていない未来の話をしだしたマリアが、いつもとは違う彼女が。なんだか不安になる。
「……別に、今まで通りだろ。アーリグリフに戻って王に仕える。国が落ち着いたら、旅に出るのもいいかもな。グリーテンあたりに渡れば、少しは面白ぇモノが見つかるかもしれねえ」
言ってから、迷って――迷って迷って、アルベルはふと息を吐いた。
「お前は……どうするんだ。ナントカってリーダーに戻るのか?」
――もう会えなくなるのか。
過去だろうが未来だろうが「もしも」の話は嫌いなはずなのに。仮定の話は嫌いなのに、そんなことを口走っている自分が信じられない。そんなアルベルに、――数拍の間の後、くすりと笑い声が上がる。
「そうね……私がクォークのリーダーをしていたのは、あの組織にいたのは……ロキシ博士に――フェイトの父親を探し出すのに、その方が都合が良かったからだし。今回の騒ぎでクォークの敵対していた銀河連邦もガタガタになったわけだから、クリフにリーダー返上して、自由になろうかしら」
首から離れた手がいつの間にか背に回っていて、きゅっと服の背を掴まれる。
「自由に……なれるかしら。アルティネイションの力は、多分一生私に付いて回る。生き残ってこの能力を抱えて――私は、自由になれるのかしら」
「……らしくねえな、てめえらしくねえ。いつだって自信満々のやつが」
「それは、あなたでしょう?」
アルベルの茶々に律義に反応して、しかし体重を彼に預けたまま、うっとりとマリアはつぶやく。
「……馬鹿な権力者に振り回されるのだけは、ごめんだわ。
クォークのリーダーを下りて……ひとところには、落ち着けないかもしれないわね。やつら、愚鈍なくせに鼻だけは利くから。――そうね、まず私にできることを探さないと」
ぽつりぽつりと。どことなく淋しそうにつぶやくマリアを、アルベルはきつく抱きしめた。結局はマリアを不安がらせてしまった。そんな自分が口惜しい。
口惜し、くて、
「――ここに、いろ」
同族意識からかもしれない、同情だけかもしれない。ただ、誰よりも強い彼女の、何よりも脆い姿はやはり見ていられない見たくない。
「……アルベル?」
「俺の――隣にいろ。俺の目の届くところに、手の届くところにいろ」
荒みきった心を知らず癒してくれる存在、乾ききってひび割れた、その自覚すらなかった心を知らず潤してくれる存在。欲しくて欲しくて手を伸ばして、血にまみれたこの手で触れて、しかし変わらず純粋なままいてくれたマリア。
気持ちの正体はいまだ分からない、ただ美しいことだけは分かる。名前の分からない、けれど透明で美しい気持ちを。こんな心を自分も抱くことができるのだと、教えてくれた彼女を、
「全部、カタ着けたら……それからで良いから、……俺のそばに、いろ」
守って、やるから。
目の届くところ、手の届くところにいるなら、きっときっと守るから。今度こそ、守ることができるから。
この気持ちが恋でなくても。どうか。
「……ぁ……、」
「まあ、んなこた全部終わってからだな。もう寝ろ」
彼女の返事を遮って、アルベルはそんな自分を自嘲する。返事を聞きたくない、意気地のない自分を、――ただ嘲笑う。
「……分かった、わ。全部終わってからね……?」
「ああ」
つぶやいたマリアが完全に脱力して、アルベルがそれを支える。人肌のぬくもりに頬をすり寄せて、安心する、とつぶやいたマリアは――言葉どおり張り詰めた心を緩めたのか、すぐに寝息を立てはじめて。ゆっくりと華奢な身体を横たえ毛布をかけて、アルベルはただ自嘲する。
とんだ茶番だ。
――似合わないにもほどがある。
そうして立ち上がった頬を夜風が撫でて。いたたまれなさを隠すように、彼はあてもなく歩きはじめる。
――夜風と虫の音が、その後に続いた。
