アルベルがすっと目を細めた。深紅の瞳に揺れるどこか淋しげな光に、マリアは唇を噛む。
本当は、本当は……、
言いたい言葉を飲み込んでただ微笑んだ。微笑むしか、なかった。そうするしか許されていなかった。そこまでしか、――許せなかった。
クォーク旗艦ディプロ。エリクールのカルサア修練場から、一行はここに戻ってきたところだった。
絶望を固めたような表情で、フェイトが動かない――もう二度と動くことのないロキシの身体に肩を回し、応援のクルーがそれを支えている。怯えて泣き出しそうな顔のソフィアがそんな彼に寄り添っている。バンデーンのエリミネートライフルの一撃を食らったアルベルは気を失っていて、その細い身体をクリフが荷物よろしく担ぎ上げている。
その他スタッフたちの顔を見て全員――あるいは物言わぬ骸であっても、全員が揃っていることを確認して、
反銀河連邦組織クォークリーダー、マリア・トレイターはひとつかすかにうなずいた。
「負傷者の治療を急いで。
――この星の住人だから条約に触れるけど。本来ならあまり面倒は起こしたくないけど、彼は私たちの恩人よ。早急に治療に入りなさい。ある程度落ち着いたらエリクールに帰すから、とりあえず艦はこのまま動かさないで」
マリアの一声でスタッフたちがあわただしく動きはじめる。振り返れば、彼女に目で頷いたクリフが医務室に向かって大股で歩き出していた。
「――フェイト、キミはこっちに。ソフィア、だったわね。……あなたもその格好じゃ動きづらいでしょう。マリエッタ、」
感情を見せずに、ただてきぱきと指示を出すマリアの肩を。いつもの穏やかな笑みを浮かべたミラージュが、無言でそっと包んだ。一瞬不安がかすめた目でそんな彼女を見上げて、しかし次の瞬間にはいつも通りの目をしたマリアが力強くうなずく。
強くて儚いたった十九歳の彼女は。誰よりも今、「リーダー」だった。
医療用のカプセルに横たわる長身。なまじ端正な顔をしているから等身大の人形のようにも見えるけれど、呼吸で胸が上下していて確かに生きていることが分かる。
「……早く、起きなさいよ」
ばたばたと事務処理を終えて、医務室にやってきて。備え付けのパイプ椅子に腰を下ろしたマリアが、携帯用の小さなパソコンで報告書に目を通しながらぽそりとつぶやいた。小さな画面に浮かぶ数値を眺めているようでいて、翠の視線は昏睡状態にある男にただ注がれている。
医務室には、現在他に人影はない。何しろあわただしくて、見知らぬ未開惑星の住人を観察したがる暇人はいない。医者やら助手やらは別の人間を診るべく出払っている。
「――ムーンベースに行かなきゃならないんだから。ロキシ博士の遺言なんだから、」
言いながらもその目に映っているのは、そういった意味での焦りではなくて。
「無茶するんじゃ、ないわよ……知らなかったかもしれないけど、やつらのライフルは普段私が振り回している銃の比じゃないのよ? 派手な大立ち回りなんかしたら、こうなることなんて分かりきってたんだから。生命があることさえ、奇跡なんだから」
言っているうちに感情が高ぶってきたのか、格好だけですら携帯パソコンを見てなどいられなくなって。小さな機械を手近なテーブルにカタンと投げ出すと、彼女はカプセルを見下ろす位置に静かに立った。
「早く、起きなさい。怪我の治療は終わったわ。目さえ醒ましたならエリクールに、アーリグリフに帰してあげるから。そうしてここのことは、フェイトやクリフや……私のことなんか忘れて、漆黒団長として今まで通りアーリグリフ王に仕えればいい」
命令調のこんな台詞を真上から見下ろす言葉を、実際にアルベルが聞いたなら激怒するだろうな、と考えながらやはり端正な寝顔を見つめる。
そよぎもしない長いまつげ、すっと通った鼻筋薄い唇。規則正しい寝息、細身ながら力強い、筋肉質の体躯。
「眠り姫ってガラじゃないでしょう。……起きなさい」
ずっと見ていたいけれど、そうすればずっと一緒にいられるけれど。
マリアは細い声で、歌うようにつぶやく。
あの瞬間、マリアの心臓は凍り付いた。一瞬の光でしかなかったはずのそれを確かに目に映して、その光が、光の線が彼の身体に突き刺さるのを目にして、その瞬間マリアの心臓は凍り付いた。
無茶をする性格なのは知っている。事実、何度も無茶をしている姿を目にしてきた。戦闘中もそれ以外も、一度目標を決めたならわき目もふらずに一直線に駆けるような、そんな男だから。そんな性格の男だから。
けれど、今までとは状況が違って。
――マリアの心臓はこうしている今も凍りついたまま、溶ける気配がなくて。
「……キミが来てくれて、確かに助かったわよ」
ぴくりともしないアルベルを見下ろして、マリアはただ虚ろにつぶやく。伸びた手が何度も何度も躊躇して、彼に伸びた手が躊躇して、カプセルのふちをようやく掴んだ。
「あのとき、あのタイミングでキミが出てきて装置を破壊してくれて、確かに助かったわ」
――まるで狙っていたのかしら。柱の影でサメ男の長話を聞きながら。
くすり。……彼女自身は小さく笑ったつもりだったのに、口元がかすかに緩んで息が漏れただけで。ちっとも笑えていないことに、三回瞬いてから気が付いて。カプセルのふちにかかった手に力が入った。
「びっくりしたわ。……キミのことだからまだシランドにいるとは思わなかったけど、まさか修練場にいるなんて思わなかった」
指先が白くなるほど力が入って、しかしマリアの表情はまだ凍り付いている。
目を細めてまたしばらく躊躇して、触れるか触れないかの距離、アルベルの頬に手が伸びた。手をゆるく丸めて頬を包み込むように、しかし決して触れない距離で、ささやいた。
「――キミとの縁は、あの時シランドで途切れていたはずなのよ?」
「……阿呆……」
小さな声。聞こえた確信がなくてマリアが瞬くと、いつの間にか伸びたアルベルの手が、彼女の手首を握っている。ひどく億劫そうに緩慢に瞬いて、ものすごく不本意そうに舌打ちをして。
「――まだ麻酔が残っているのよ。無理しない方が良いわ」
マリアの忠告にさらに顔をしかめると、しかし無駄に入っていた全身の力を抜いた。
「……阿呆。人の枕元でぶつぶつぶつぶついつまでもくだらねえ愚痴吐いていやがって」
「……聞こえていなかったくせに、変な言いがかりは止めなさい」
力のなくなった手からその気になれば簡単に取り戻せるのに、マリアはアルベルに手首を握られたままにしておいた。いつもよりも、少し冷たい。――けれど、暖かく血の通っている感覚に安堵する。
「――ここはどこだ」
「私たちの、艦。キミたちの言うところの「星の船」ね。案内してあげたいところだけど、キミはもうしばらく動けないし、こっちもいろいろ面倒な条約があって、できないの」
「……別に興味なんてねえよ」
アルベルの手に引かれて、微妙な距離をゼロにされた。触れた頬にもゆっくりと血の気が戻りつつあって、マリアはさらに嬉しくなる。
凍り付いていた心が、ゆっくりと確実に溶けていく。
「このせまっ苦しいのはなんだ」
「治療の効率が良いように作られたベッドよ。確かに狭いかもしれないけど、こんな体験一生に一度なんだから楽しもうとしてみたらどうかしら?」
「笑えねえよ……くそっ」
一度は抜けたはずの力が、また全身に入りつつある。つくづく短気な男だ。麻酔が切れるまでずっと足掻くつもりなのだろうか。
ぼんやりと思っていると、アルベルがにらんでいることに気が付いた。何かしら? マリアは小首を傾げる。
「――気を失っていたのはそう長い時間じゃないわ。そうね、……エリクール……カルサアにいるなら、そろそろ夕刻だと思う」
動けないくせにじたばたもがいたアルベルの、肩口に巻かれた包帯に触れて、
「さっきのライフルの傷、ここでできる治療は全部終わったわ。
傷口はないかもしれないけど、見えないだけで……槍が貫通したとでも思えばいい。一応保護のために包帯を巻いてあるし、なんだったら痛み止めも処方させるわ。しばらく動かす時に違和感が続いて、ひょっとして痣か何かが痕として残るかもしれないわね。――無茶、するからよ」
「……これから、」
どうする気だ、と続けようとしたのが分かって。マリアは包帯の手を元に戻した。アルベルに掴まれた手首も取り戻して、胸で握りこぶしを作る。
「――これから、私たちはロキシ博士の遺言どおりにメーンベースに向かうつもり。……フェイトはどうか知らないけど、わたしはそのつもりよ。
キミは、麻酔が切れたらカルサア修練場に送り届けるわ」
マリアの言葉を聞いて、アルベルがすっと目を細めた。深紅の瞳に揺れるどこか淋しげな光に、マリアは唇を噛む。
本当は、本当は……、
言いたい言葉を飲み込んでただ微笑んだ。微笑むしか、なかった。そうするしか許されていなかった。そこまでしか、――許せなかった。
「もう、二度と会うこともないでしょう。シランドでさよならを言えなかったけど、今度は大丈夫みたいね。
さよなら。……短い間だったけど、キミと一緒に旅ができてけっこう楽しかったわよ?」
にこりと笑えた自信はある。クォークのリーダーとして腹芸が得意になっていて、思ってもいない表情を作ることには慣れている。いつものように不適にふてぶてしい、そんな笑みを浮かべた自信はある。
――それなのに、
「……阿呆。泣きそうなツラしてんじゃねえ」
泣いてはいない目尻に、まだ麻酔が残る緩慢な動きで伸びる手。その体温を感じた瞬間、確かに潤みを帯びた目にマリアは瞬いた。鼻の奥がつんとして、あわてて激しく瞬いて涙を追い払う。
「俺も、連れてけ。……カルサアやらその周辺やらじゃ、もう強い相手がいねえんだ」
「だめよ」
追い払っても涙は次々浮かんできて、意味の分からないそれにマリアは混乱する。混乱する間にもアルベルの手は引かずに涙の気配も引かずに、やがてとうとう、水滴が彼の手にかかった。
「キミは、あの星から出ちゃいけない。偶然フェイトがアーリグリフに墜落しなければ、この騒ぎに巻き込まれなければ、私たちはそもそも顔を合わせることもなかったんだもの。
だから、だめ」
「……」
アルベルが何かを言っている。けれど、泣くつもりはなかったのに涙だけではなくて嗚咽までこみ上げてきて、声が、聞こえない。何も見えない。
だめ。そんなの、私が許せないから。これ以上関係のないごたごたにアルベルを巻き込むなんて、私が一番許せないから。
だめ。
――未開惑星保護条約なんかどうでもいい。ただでさえ無茶をするアルベルに、これ以上無理をさせたくない。
珍しいどころではなく声を上げて泣き出したマリアに。その背に。いかにも戸惑いながら、――アルベルの腕が回った。
