にやり、とアルベルが笑った。
決して明るい笑いではない、むしろどこまでも不吉で凄惨な笑み。深紅の瞳が血に餓えた獣のようにぎらついて、小さくのぞく犬歯が肉食獣の牙のようで。
ざわり、とマリアの背筋を冷たいものが這った、肌が粟立った。
戦闘中、いきなり横手から突き飛ばされた。何とか倒れ込まないように重心を低くバランスを取って、何ごとかとマリアが振り返ろうとした矢先、
「……が……ッ」
不吉な――うめきのような悲鳴のようなそんな音が聞こえて。恐る恐る振り返って、目にそれを映した瞬間。
マリアの世界はとたんに粘度を増した。
時間の進みも自分の動きも、仲間も敵も空気も。すべてがひどく粘ついた。気ばかりが焦って、けれどやはり身体は思うように動かなくて、動きが思考がすべてすべて粘つく何かに邪魔されて。耳元に心臓の打つ音が聞こえる、ぎゅっと視界が狭くなる。焦る気持ちに圧されて何も考えられなくて、けれど頭の一点だけは絶対零度にまで冷え切って、そんな自分を冷静に冷酷に見下ろしていて、
「あああああああっ!!」
誰かが耳元で喚いている。動くものに手が勝手に照準を合わせて引き金を引いて、銃の反動で肩が外れそうな衝撃を受ける。
「ああああああああああ…………ッ!!」
銃弾をすべて撃ち尽くして予備のマガジンに交換して、ああ、そんな撃ち方をすると効率が悪いのにと心のどこかが呆れるのに、手は身体は一向に銃撃を止めようとしてくれない。
あっという間に全弾打ち尽くしてさらに次のマガジンを掴んだ時、――マリアは背後から羽交い締めにされた。
力強い太い腕が身体に回って、もがいてももがいてもまるで身動きが取れない。
「……ち、け……! おちつけ、」
喚き声は続いて、それ以外の音も耳に響いて、
「落ち着け、マリア!! らしくねえぞ!」
その音を「声」と認識した瞬間、言葉が意味が聞こえはじめて、
「大丈夫だ、死んでない! あいつは、死んじゃいねえから……!!」
「……く、りふ……?」
養父に押さえ込まれているのだと認識した瞬間、マリアの全身から力が抜けた。意識ははっきりしているのに身体に力が入らなくなった。
いつの間にか、敵はすべて地に倒れ伏していた。
物陰に隠れていたらしい仲間たちが、いかにもこわごわ姿を現わした。
スフィア211、敵の――ある意味では、本拠地。一歩脚を踏み入れた瞬間から、後戻りはするまいと決めてここまで上がってきたけれど。気付けば仲間の消耗は激しく、アイテムも心もとなくなってきていて。
ぼんやりと膝を抱えるマリアの前には、応急処置を終えたアルベルが横になっている。
「――馬鹿ね」
あの瞬間目に映ったもの、今も彼女の網膜に焼き付いている光景。
――右肺と左太腿を貫かれて、宙にはりつけにされている細身の男の後ろ姿。
「馬鹿……」
先ほど我を失って銃を乱射した結果、負ってしまった火傷を見下ろす。右手に残る痺れたような痛みを、そっとさすってみる。――その手にぽたりと滴が落ちる。
「キミは、馬鹿よ」
一粒だった滴は次々こぼれて、視界がにじんで何も見えなくなった。少し離れたところで怪我の手当てをしている仲間たちに気付かれたくなくて、必死に声を殺しても。嗚咽はあふれて止まらない。
「あのまま、放っておかれたって。私が致命傷を負うとは限らなかったじゃない。今のキミよりもずっと軽症ですんだかもしれないじゃない」
血の気の引いた白い顔で横たわって、ぴくりとも動かない男。無表情なその顔に残った血のあとを――何度かの躊躇の末指先で拭き取れば、ひどく肌が冷たい。
いつもはもっとあたたかいのに。まるで火傷してしまいそうなほど、熱いのに。
「馬鹿よ。庇われることを嫌っているくせに、自分が庇うのはかまわないの? 庇われた私が何を思うのか、ほんの少しの想像すらしないの??」
ぽたり、見下ろしたおかげでその顔にも滴が落ちて。マリアは泣きながら、先ほどと同じように指先でそれを拭い取る。
「馬鹿……死んだら、許さないんだから」
生と死の狭間に眠る男に、彼女は言い放つ。
「絶対に、許さないんだから……アルベル!」
泣きながら、言い放つ。
怪我をした場所が悪い、と癒しの術を使う少女は言った。片肺を損傷して太腿の大動脈を傷付けられて、彼女の術で傷口はふさぐことができても、それまでに流れた膨大な量の血は戻らない。彼女の精神力すべてを術に使っても、ダメージを帳消しにできる保証はない。
そんなことをさせるわけにはいかなくて、せめて傷口だけは癒してもらって。
ディストラクションもアルティネイションもコネクションも。疎ましいはずの遺伝子に刻まれた強大な力は、しかしこんな時には役に立たない。もしもここで役に立ったなら疎ましさも多少は薄まるかもしれないのに、完全にはコントロールしきれない改変の力では、どうすることもできない。昏々と眠り続ける一人の男を、目醒めさせることはできない。
粘度を増した世界はいまだそのままで、動きのすべても何かが封じているようで。もどかしくて気持ちが悪くて落ち着かなくて。
涙が止まらなくて、
「……ここは……地獄か?」
掠れた声が上がって、深紅の目がぼんやりと開いた。半分以上夢に死に捕らわれたまま、緩慢に瞬いて彼女を映す。
「――てめえが、泣いてるなんて……地獄だな」
その言葉の意味が消化しきれないまま、涙が止まらないままマリアはゆるく首を振った。いいえ、と小さくつぶやく。それ以上の声が出ない。
「いいえ、キミは死んだりしない。私は、ここは現実よ……しゃべらないで。肺が傷付いて完治していないの」
「命令……するな、阿呆……」
ひどくつらそうに吐き出して、ひとつ息を吸う。険しい顔をして前をにらんで、ゆるくゆるく、懸命にリズムを整えようとしている。無茶をするなといくら言っても、まるで聞いてくれない。
「何でよ」
アルベルが目醒めない不安であふれていたはずの涙は、彼が目を醒ましても止まってくれない。泣きたくないのに勝手にこぼれて、ぱたぱたとかすかな音を立てて地に落ちる。
「……何でよ」
死にかけて、怪我が治りきっていない以上今だって――死にかけている男。ひゅーひゅーぜいぜいいっているのは事実で、いくら彼ががんばろうと意思の力でそれがどうにかなるはずがない。多分それが分かりきっているのに、身体に無理に力を入れて不可能を可能にしようとしている男。
それが別のことなら格好いいのかもしれないけれど、
「……なんでキミは……死に、急ぐのよ……?」
マリアの目にはそうとしか見えなくて、それはとても、
――にやり、とアルベルが笑った。
決して明るい笑いではない、むしろどこまでも不吉で凄惨な笑み。深紅の瞳が血に餓えた獣のようにぎらついて、小さくのぞく犬歯が肉食獣の牙のようで。
ざわり、とマリアの背筋を冷たいものが這った、肌が粟立った。
――それは、死にかけた人間の浮かべるものではなくて、普通の人間のものですらない。猛獣よりも凶悪な、たとえばきっと悪魔になら似合うだろう笑み。
「……生き急ぐつもりも死に急ぐ気もねえな」
声そのものはかすれて弱々しいくせに、言葉には力がこもっている。顔色は今も血の気が引いて白いくせに、決して死にかけた人間の顔ではない。
一瞬呑まれて、我に帰った瞬間それに気付いてマリアの頭に血が上る。
「どんなつもりか知らないけど、いくら強がってもキミは半分以上死んでるのよ!? 今も、無茶したらその分死に近くなるんだから! 意思だけでどうにかできるほど、キミの傷は浅くないんだから!!」
悔しくて、死にかけているくせにどこまでも強気なアルベルが悔しくて、それに呑まれそうな呑まれまいとあがいている自分が悔しくて、
悔しくて、
アルベルの笑みが深くなる。
「――どうせ泣くなら、そっちの顔の方がてめえに合ってるな」
「っ、な……!?」
止まらない涙は今度は悔し涙になって、ぼろぼろと散った涙、口元近くに落ちたそれをアルベルが舐め取って、
「別に生きたいわけでも死にたいわけでもねえが、そうだな、――」
言いかけた言葉が途中で消えて、いや、口が動いているけれどそれは音になっていなくて、目を瞬くマリアにもう一度あの笑みを向けて、
「――寝る」
「ち、ちょっとアルベルあなたさっき何を言いかけ……」
身動きが取れねえと何もできねえな、という呟きを残して、彼女の質問にはまるで答えないまま真紅が細くなって消えていく。
――泣くな、とは言われなかったけれど。悔しさは驚きと疑問にとってかわって、いつの間にか彼女の涙は止まっていた。言葉ひとつまなざしひとつで彼女を翻弄する男は表情を消して目を閉じていて、白い顔と端正な顔立ちが死体のようにも人形のようにも見えて、マリアの心臓がぎゅっと小さくなる。
けれど小さく寝息が聞こえてかすかに胸が上下していて、
――彼は生きているのだと。
恐怖は淋しさに淋しさは怒りに怒りは悔しさに悔しさは驚きに。ついぞ多分に表情の変化を見せることがないマリアは、翻弄されて一人めまぐるしく表情を変える。
そんな自分にはっと気が付いて、それこそ悔しそうに唇を噛んでから、
「……馬鹿っ!!」
鋭く吐き捨てた。
生も死も関係ない男は、どこまでも強くて。強くてどこかもろくて、優しくて意地悪で。
悔しいけれど。
とりあえず現状が続きそうだと思った瞬間、マリアの頬にまた一粒、一粒だけ雫が散って。
――それは嬉し涙なのだと。気付く者は誰もいなかった。
