愛でも欲でもなくて、衝動でもなくて。そうしたかったわけではなくて、そうするべきと感じたわけでもなくて。
――ただ、それは本当に何気なくそうしていた。
自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、相手が何を思っているのか何をしたいのか、まるで分からない。
エリクール二号星、ゲート大陸は水没都市サーフェリオ。夜半過ぎ。
なかなか寝付けないアルベルは、ふらりとそこいらをぶらついていた。エレノアとパルミラが重なるように出て地上を照らしていて、ふたつの月がかすかにぶれたふたつの影を生み出している。
ただ無言で歩を進めて、無意識に殺した足音でしかし桟橋に波紋が揺れて。
ふと歩みが止まる。
青い髪の女がいた。青白い月の光に照らされて、その輪郭が銀に光っていた。何をしているのかまるで分からなかったけれど、手を伸ばして身体を広げて――それはまるで、
「――あら、アルベル」
「……っ」
彫像のようにぴくりともしない彼女が、不意に首を動かした。名前を呼ばれてはじめて、そんな彼女に魅入っていた自分に気が付く。
「キミも、散歩?」
「――……別に」
肯定するのが悔しくて、けれど背を向けるのも負けた気がして悔しくて。アルベルは憮然としてつぶやいた。翠の瞳が細くなって、それがまるで――出来の悪い子供を見る母親のそれと酷似して見えて、
「……ぁ」
「暇なら、話でもしない? 私、キミのこと何も知らないから」
つい先日から行動を共にするようになった女が、猫のように目を細くしている。
断る理由が見つからなくて探し出すのはまるでいいわけをするようで。アルベルは無言で足を踏み出すと、村の入口の土手のような場所に直に腰をおろしている彼女の脇、わざとらしくどかりと座り込んだ。
「……ふふ」
「――あんだよ」
月明かりに彼女は――美しい。アーリグリフの高官という立場からそれなりに美姫を目にして目が肥えているはずのアルベルさえ、しかしマリアは美しいと思う。人形のような硬質の美貌。けれどかすかに笑みを浮かべただけで、まるでほころびはじめた花を思わせる。
自分から話しかけたくせに、特に会話の糸口を探すそぶりはなくて。まっすぐに前を見つめている。視線をこちらに向けることなく、アルベルには見えない何かを見据えて――先ほどと同じように両腕を広げる。
「何やってんだ」
「……月光浴、かしら」
「?」
断定しないで、ただ腕を広げて。それは、――それは。
青白い月の光に、浮かび上がる銀の輪郭。その輪郭が今にも薄れて幻のように消えてしまいそうで、――らしくないことに、アルベルの心に焦りにも似た何かが生まれた。今にも消えてしまいそうに、マリアの気配が薄い。そうして眺める間にもどんどん薄くなっていく。アルベルの心に浮かんだ感情、不安めいたそれが反比例してどんどん大きくなっていく。
その感情に突き動かされて。
――ただ、手を伸ばす。
「……何?」
「――……さあ、な」
きょとんと翠が瞬いた。希薄だった存在感がとたんに増して、マリアの頬を包むように手を伸ばしたアルベルも、多分彼女と同じようにきょとんと瞬いた。
自分が何をしたかったのか、よく分からない。
ただ、自分から手を離すのが何となく惜しくなって、振りほどこうとしないマリアが不思議な感じがして、伸ばした手をそのままに、ほんの少し体重を移動させる。
「――何、してたんだ」
先ほどと同じ問いをくり返す。頬の手を振りほどこうとしないマリアは、ただまっすぐにアルベルを見据えている。
「……月光浴、と答えたはずだけど」
「――本当に?」
なめらかな肌、きめの細かい手入れされた肌。整った顔、深い深い翠が瞬いて小首を傾げる。
「月光浴、よ。少し寝て目が醒めて――何かしら、何か呼ばれた気がしたの。外に出てみたら月がきれいで、……不思議ね、昼間見た景色がまるで別の何かに見えたの」
「――ああ」
こうして触れた女は、まるで昼間とは別人で。何も変わらないのにまるきり違う何かのようで、アルベルが目を細める。そんな彼を映した翠が、ひとつ瞬く。
「キミは、アルベルよね……?」
「? 他の誰に見えるってんだ」
「ええ、そうなんだけど……昼間見るキミと今のキミは、同じなのにまるで違うわ。そう、……見えるの」
アルベルが思ったことをそのまま口にして、彼女が静かに手を伸ばしてきた。鏡に映したように、自分がされているように小さな手でアルベルの頬を包んで――不思議そうに、
「同じなのに、まるで違うわ。月明かりのせいかしら、なんだか存在感が希薄で、何だか……何か、違うの」
子供のようにとりとめのないことを口にして、アルベルはそんな彼女に魅入られたように、魅入ったように、
「――ぁ、」
先ほどからかすかに動いて言葉を紡いでいた、ふわりと赤いやわらかな唇に、――そっと口付ける。
愛でも欲でもなくて、衝動でもなくて。そうしたかったわけではなくて、そうするべきと感じたわけでもなくて。
――ただ、それは本当に何気なくそうしていた。
自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、相手が何を思っているのか何をしたいのか、まるで分からない。
いきなり唇を奪われたマリアは、しかし抵抗も拒絶もしなかった。至近距離に長いまつげが伏せられて、それにつられるようにアルベルも目を伏せる。
愛でも欲でもない、衝動でもない。ごく自然に重なった唇は、そのままさりげなく離れて。
伏せられていた翠が、また彼を映し出す。
「……何……?」
姿形はまるで違うのに、まるで自分がそこにいるようだとアルベルは思った。鏡に映った虚像よりも間近い存在。ふたつの光源にふたつにぶれた影よりも、ずっとずっと近くて――そして遠い存在。
いつでも前を見て、前だけを見据えている、誰よりも強い女。
目を離した瞬間宙に溶けそうな、誰よりも儚く脆い女。
自分ではない自分が目の前にいる。
「――俺を呼んだのは、お前か……?」
「呼んだ、覚えはないわ。……キミこそ、私を呼んだ……??」
静かな声。今はもう静まり返った水面によく似た、静謐な気配。かすかな風に波紋を広げて、けれど本質はどこまでも変わらない――月光に照らされて銀の輪郭を浮かび上がらせて、太陽が昇ればまるで違った姿を見せるのだろう女。
「――マリア」
「……何?」
愛でも欲でもなくて、ただ。吸い寄せられるように距離を詰めて、再び唇を重ねる。拒絶しない彼女は先ほどと同じように目を伏せて、頬を包んだままの手は温度の変化を感じない。
ごく自然に、華奢な身体を包み込んでいた。戸惑いのない細い腕が、彼の背に回った。ふたつの影がひとつになった。ひとつの影は、しかしふたつの月でふたつにぶれている。
誰よりも強くて、何よりも脆い女を。きっと本質は彼とよく似通った女を。細くて脆くてまろくてやわらかな身体を、強くて張りつめたまっすぐな心を。
似ているけれどまるで正反対の女を。
全身で包み込んで、
「……俺を、呼んだだろう」
「キミが、私を呼んだのよ」
月光に照らされて、どこまでも静かな世界で。出逢って間もないはずなのに、生まれる前から知っていたように。愛でも欲でもなくて、どこまでも純粋な気持ちでごく自然に何度も触れるだけの口付けを交わしながら。
ただ、自分にはない、求めてやまない強さを。まっすぐにきっぱりと前を、物事を見つめる強さを。
この女を手にしたなら、それすらも自分のものになるような。そんな錯覚を心の底で笑って、
青白い月の下、ただ――触れるだけの口付けを何度も交わす。
「――ちょっとアルベル! いい加減起きなさいよもう朝よ!!」
「……んぁ……?」
どすん、と衝撃を感じて目を醒ますと、そこはサーフェリオの村長宅で。ベッドから叩き落されたアルベルは髪に手を突っ込んででっかいあくびをする。彼を起こしたマリアは、いつものように偉そうに腰に手を当てる。
――昨夜のあれは、夢だったのかもしれない。
ぼやぼやしている彼に、二度寝したら脳天に風穴開けるわよ、とマリアがこともなげに脅し文句を吐いた。まったくもうこんなとこまで寄り道している暇ないんじゃないの、などとぼやきながら颯爽と去っていく後ろ姿に、
……痕でも残しときゃ、夢だったかどうか分かったもしんねえな。
そんなことを考えて、アルベルはまたひとつでっかいあくびをする。
月光の見せたとりとめのない夢でも。実際あれが現実でも。どこまでもまっすぐな強さは、確かに彼がほしがっているものだから。それをマリアが持っているのは、きっと事実だから。
――まあ、少なくとも自分はあの女を……好いているのかもしれない、などとアルベルは思った。
