――ここまで純粋な気持ちを抱いたのは、生涯はじめてかもしれない。ここまで純粋な気持ちを抱くのは、生涯最後だと思う。
名前の分からない、けれど透明で美しいこんな気持ちを。
――こんな薄汚れた血にまみれた自分が抱くなど。いっそ滑稽で反吐が出るのに。
さらさらとせせらぎの音が涼やかな、サンマイト平原西部。バニッシュリングを手に入れたし取り逃したアイテムがあるしと、一向はダグラスの森に向かっていた。
「――じゃあ、このへんでちょっと小休止しようか」
にっこりと、いつもの胡散臭い爽やかな笑みを浮かべたパーティリーダーの言葉で、一行は解散した。
フェイトは水を汲みに行ってネルとマリアはアイテム整理をはじめて、クリフは手持ちぶさたにガントレットをいじりだして。そうしたパーティメンバーを尻目に、アルベルは手近な木陰に向かうとどかりと腰を下ろした。
ここいらの雑魚敵はすでに全滅させてある。後ろ手に組んだ腕を枕に幹に背を預けて、彼は紅い目を細めた。いかにも昼寝しろといわんばかりの陽気に、やがてうとうとと眠りの縁をさまよう。
そうして――少し経ったころ。
寝入っていたアルベルは不意に目を醒ました。緩慢に瞬く紅が赤毛に黒衣のすらりとした人影を映す。それが誰かを確認すると、不機嫌ばかりだった瞳がほんのかすかに緩んだ。
「――こんなところで昼寝かい?」
風邪引いても知らないよ。……ああ、ナントカは風邪引かないって言うか。
立ち止まって片手を腰に当てて、見下ろす際に流れ落ちた髪を押さえている女。呆れた風でいてどことなく嬉しそうで、何より穏やかな低めの声。
「……何の用だ阿呆」
「アホは余計だよ。別に用なんてないさ……アイテム片し終わってふと気が付いたら一人足りなかったからね。暇だったし、時間つぶしに探してやろうかと――、」
訊ねておいて答えはまるで聞かずに、アルベルはふと手を伸ばした。手甲の上からでも細い手首を掴むと、軽く引っ張る。いきなりのそれにさすがにバランスを崩した彼女を、これ幸いとそのまま器用に引き寄せて。彼のあぐらに腰を落としたネルを背後から抱きしめれば、硬直した身体にやがてじわじわとしなやかさが戻っていく。
「いきなり何するのさ、ばか」
「バカは余計だ。……暇なんだろ」
さやさやと風に揺れる涼やかな葉擦れの音、腕に抱いたいいにおい。柔らかくてあたたかくて、……安心する。
半分寝入ったアルベルがネルの肩口に顔を埋めれば、彼の髪がくすぐったのか、くすくすと呆れた、どこか楽しそうな笑い声が上がった。
こうして無防備に触れ合うようになって、どれくらい経つのだろう。七割方寝入った頭でアルベルはぼんやりと考える。
最初は。アーリグリフの地下牢で顔を合わせた時には、紫の瞳に浮かんでいたのは憎しみの色でしかなかった。彼の紅はそもそも彼女を映していなかった。
そう大して昔の話ではないのに、そのころの記憶はずいぶん掠れて消えかけている。
最初はそんな感じだったのが、徐々にか劇的にかいつの間にか変わって。今では紫に映るのは苦笑混じりの諦めにも似た、けれど暖かなもので。紅に映るのは、いっそ彼には不似合いな穏やかなもので。
――この気持ちは、一体何と呼ばれるものなのか。
「……あんた、血のにおいがする」
そんなことを考えていると、不意にそんなつぶやきが耳に入った。ふと見下ろせば、不審な色を隠しもしないでネルが眉を寄せている。
「――ああ、そういや回復しようとして……忘れてたな」
「っ、あんたほんとに馬鹿だね!! 何でそういうこと忘れるんだい!?」
じたばた暴れるので腕から力を抜けば、身体をひねったネルが顔を近付けてきた。まるで彼を押し倒す勢いで、血のにおいとやらで傷口を探そうとする。
思わず呆れて見守っていると、ふとあわただしい動きが止まった。
「――見付けた」
「……っ、」
無遠慮に触れられた左脇腹の傷に、思わず息が詰まる。その反応を見てネルは深々と息を吐いて、痛みに乱れかけた息を懸命に整えるアルベルはそんなネルを半眼で見下ろす。
「本当に……何でこんな傷を忘れるんだか」
「うるせえ、阿呆」
彼女の手が先ほど触れたところから、触れられたおかげで痛みが押し寄せてきた。ずっきんずっきんこめかみを抉る痛みが、心臓が脈打つたびに神経を灼く。
忘れていた傷。大きさなら親指の爪くらいのちっぽけな、けれどその分ずいぶん深い傷。
「……触るな」
「触らずに手当てできるはずないじゃないか」
治癒の術をかけるからと、だから手を出すなと言う前に、ネルの手が再び傷口に触れる。
白い手が、血に汚れる。
払いのけようにも――重く痺れたような傷に、今になって力が入らない。
「……ったく……いい加減自分を粗末にするクセ改めな」
小言を言いながら、ネルの手がめまぐるしく動く。
「こんな変な格好してなきゃ、もう少し傷が浅かったと思うけどね」
「余計な世話だ」
あっという間に清潔な包帯の下に隠れた傷に、アルベルもさすがにひとつ息を吐いた。そうして気を抜いた瞬間、ほら終わったよと――包帯の上から、よりにもよって傷口をはたかれる。
かまえていればともかくそれはまったくの不意討ちで、アルベルは声すら上げられない。分かっていてやったのだろう、ネルはつんとそっぽを向いている。
「て、てめ……っ」
「自業自得じゃないか。馬鹿」
反射的ににじんだ涙にアルベルが仏頂面になると、そっぽを向いたはずの紫が彼を射ている。
それまでとは一転して、真剣そのものの顔、声。
「ねえ――いつ、こんな怪我したんだい」
巻いたばかりの包帯を、今度は傷口に触れないように細い指がたどる。
「忘れてたなんて言って、本当は気付いていたんだろ。麻痺毒までついでにかかっててさ、このまま放っておいたら……あんた運悪かったら出血多量で死んでたよ」
「――……さあ、知らねえな。実際死ぬ前にこうして治療できたんだ、んなことどうでも良いだろうが」
今度はアルベルがそっぽを向いた。投げやりな態度にネルの柳眉がつり上がる。
――嘘、だ。彼女の言葉どおり、分かっている。
確かバニッシュリングを手に入れたウルザ溶岩洞からの帰り道、ドラゴンに噛み付かれた傷だったか。牙が突き立って、食い千切ろうとする前にその頭蓋を刃で割った。おかげで傷口は広がらず、牙も外れて――そのまま放っておいた結果、麻痺毒とやらで本気で傷の存在を忘れていた。
――別に、生命を粗末にしているつもりはない。
ただ、そうしてドラゴンの攻撃を受けたのは、無防備な背後を襲われようとしていたネルをかばったためで。傷を受けたその場、もしくは戦闘終了直後に治療しなかったのは、ネルにそのことを勘付かせたくなかったためで。
そんな気を回した自分が自分で信じられなくて、けれどやはりネルに知られたくなくて。
アルベルは意地で視線をそらし続ける。険しい顔をしたネルが悔しそうに奥歯を噛みしめて、けれど自分のそばからどこかに行ったりはしない、それが彼にはこっそりと――嬉しい。
――ここまで純粋な気持ちを抱いたのは、生涯はじめてかもしれない。ここまで純粋な気持ちを抱くのは、生涯最後だと思う。
名前の分からない、けれど透明で美しいこんな気持ちを。
――こんな薄汚れた血にまみれた自分が抱くなど。いっそ滑稽で反吐が出るのに。
「――自覚はないかもしれないけどね。本当に死にかけてたんだよ?」
「しつけえな、だから結果的にどうにかなったんだからもう良いだろうが」
「今度同じことがあったら、どうにもならないかもしれないんだよ」
「過程の話なんかするんじゃねえよ。どうにかするに決まってるだろ」
怒っていたはずのネルが、言葉の途中で顔を伏せた。言葉のやり取りではなくてそのことがアルベルは気にかかるのに、何をどう言えばいいのか分からない。
怒っている顔が美しいのに、不敵に微笑めばさらに魅力的なのに。その哀しい顔もそれはそれできれいだけれど、アルベルが何より気に入っているのはあくまで強いネルなのに。
「……あたしのせいで、怪我なんかしないでほしいんだ」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、アルベルの息が詰まる。よもやバレているとはまったく想像していなかった。
「あたしは、そう簡単に死んだりしない。そんなあたしをかばって、あんたがむざむざ傷付くなんて――嫌、なんだ」
噛みしめるように単語をつぶやいて、脇腹に残った血の筋をたどる白い指。ネルの指先が酸化した血で赤黒く染まってそれが嫌なのに、アルベルは声すら上げられない。
「馬鹿な真似、するんじゃないよ……あたしは簡単に死んだりしない」
「――阿呆、人は、簡単に死ぬもんなんだよ」
「だったら! あんただっていつ死ぬかも分からないじゃないか!! 自分を粗末にするのは止めろって、さっきも言っただろ!?」
「でけえ声、出すな……」
一言うめけばどうにか身体も動くことを思い出して、とりあえず――アルベルは、ネルの手を取った。
美しい手だと思う。隠密だとしても、彼自身の血に染まったそれとは違って、まぶしいほどにきれいだと思う。この手を汚したくないと、本心から思う。――彼の血で、汚したくはないと思う。
思う、から。
「ち、ちょ……!?」
思うから、白をまだらに染める赤を、彼は丁寧にぬぐい取っていく。唇で、舌で。いつくしむように。心底、いとおしむように。
彼らしくなくても、かまわない。そもそも「らしさ」を気にするのがいかにも阿呆らしい。
――この気持ちが恋でなくても。
――この気持ちの正体が分からなくても。
ネルを好いていること、変わらずきれいでほしいこと。そのふたつは確かだから。確かだと、思うから。
さらさらと川の音。遠く遠慮がちに、パーティリーダーの出発を告げる声が響いた。
