「……あんたね……」
「――あ……?」
「いい歳こいた大人として、一般常識くらい身に付けな……!!」
青筋を立てたネルが腰の後ろに手をやって、――秀麗な城の一角が轟音に揺れた。
聖王国シーハーツ首都シランドはシランド城。
一度は自分の国に帰ったはずのフェイトたちが、行方不明のアルベルを連れてひょっこり現れたのが数日前。自分が役に立つならと彼らに同行して、色々信じられないものを見聞きして――。そして今日、久々にシーハーツ王城の自室に戻ったネルは、大きく息を吐いていた。
ひどく疲れた。フェイトたちにはとても言えたものではなかったけれど、ひどく疲れていた。
想像すらしたことがないものを目の当たりにして。シーハーツやらアーリグリフやらで大騒ぎしていた彼女の世界が、いかに狭かったかを思い知らされて。明らかに文明の違う――文明の遅れているネルには、常識と思われる根本からまず違っていて。
話に付いていけない。どこから何を誰に訊ねれば良いかも分からない。
不安は冷たい塊になって心の奥でどんどん大きさを増して、けれど自負もあった。エリクールと呼ばれるちっぽけな星の、シーハーツという名のちっぽけな国の、けれど最高位の施術士としてクリムゾンブレイドの名にかけて。弱音だけは吐いてたまるかと思った。
「出発は、明日の朝……」
不安やら強がりやらでぐるぐるしているネルを気遣ってくれたのだろう。パーティリーダーは集合時間までは完全に自由行動にしようと言った。宿も食事も各自自由にしようと言っていた。それとなくメンバーの予定を聞き出して、それぞれに会いたくなかったらそこに行かなければ良いと暗に言っていた。
ありがたかった。そんな風に気を使われるほど疲れが表に出ていたのかと思えば悔しくもあったけれど、それ以上にありがたかった。
「陛下に報告はすんでいて、性急に片付けるべき任務はなくて……」
本来は、時間があるからとゆっくりごろごろする趣味はネルにはないけれど。いきなり帰ってきてまたすぐにいなくなるとしても、戦争終結でごたごたしている現在彼女がすべきことはたくさんあるけれど。
とにかく、せめて今は――少し休みたくて。眠りたくて。
ネルはぶつぶつつぶやきながら、戦闘服に手をかけた。部屋着に――寝間着に着替えようと上着の前合わせを開いた。ところ、で、
ばたん。
「おいクソ女、」
いきなりドアが開いたと思ったら、一応見知った顔が――何のうかがいもなくずかずか部屋に入ってきた。
部屋の主は何かに耐えるように、うめく。
「……あんたね……」
「――あ……?」
「いい歳こいた大人として、一般常識くらい身に付けな……!!」
青筋を立てたネルが腰の後ろに手をやって、――秀麗な城の一角が轟音に揺れた。
「まったくあんたってやつは!!」
短刀を片手に怒らせた肩で息をしながら、ネルがぷりぷりと怒っている。ぼこぼこになったアルベルが彼女の前に正座させられていて、まだところどころコゲたり凍ったりしていた。
「……今さら隠すもんでもねえだろうが」
「――何か言ったかい?」
凍てついた声に命の危険でも感じたのだろう、さすがのアルベルもわざとらしくそっぽを向く。一体どんな顔してるってんだい失礼なやつだね、とネルはさらに腹を立てる。
そっぽを向いたアルベルが、しかし面白くなさそうに口元を歪めた。
「今さらてめえが俺に対して隠すようなもんがあるか?」
「常識の問題だよ!! 部屋に、誰かの私室に入る時はまずドアをノックしな!」
言い放ってから――とんでもないことをさらりと言われたことに気が付いて、ただでさえ怒りで赤かった顔にさらに朱が昇った。彼女のそんな顔色を見て、視線を戻したアルベルが皮肉いっぱいに笑う。
「――何言い出すんだいあんた」
「……事実じゃねえか」
「やかましいよ!!」
多分ネル自身すら知らないところまで、この男は知っている。逆にアルベルのことをネルは知っている。知って、しまった――許してしまった。だから。今さらこの男に肌の一つや二つ見られても、そう考えれば大したことではない。
そう考えて――話がすりかえられそうになったことに気が付いて、ネルはきしりと歯を食いしばる。
「話を、変な方に持ってくんじゃないよ……あたしは、あんたの非常識を指摘してるんだ」
そもそもその格好からして非常識極まりない男に、ふと我に返ったネルは空しさを感じて息を吐いた。
駄目だ。いくら言ってもこいつは絶対に理解しない。理解しないに決まってる。
そのため息をどう受け取ったのか、いつの間にか膝を崩していたアルベルが面白くもなさそうにそこに片肘をついて、フン、と鼻を鳴らす。
「てめえこそ、自分の思考を変な風に固定して、それにすがってんじゃねえよ。見苦しい」
「……はあ?」
「わけの分からねえとこに勇み込んで乗り込んで、結果いっぱいいっぱいでもがいてるんだろ。余裕のないてめえを直視したくなくて、この国でそんなてめえを認めるのが嫌で、だから目をそらしてる」
――違うか?
深い紅が心の奥底を見透かすようだ。得体の知れない寒気に襲われて、ネルはただアルベルをにらんだ。にらむしか、できなかった。反論できない――それはつまり彼の言葉の正しさを照明するようで。悔しい。
「余裕がねえからどうでも良いことに噛み付きやがる。言葉で反論できねえから、アラ見付けて暴れる。……非常識なのはどっちだ? あァ??」
「……っ」
悔しい、悔しい悔しい。この男に非常識を諭されるなんて、不覚にもほどがある。
反射的に再び短刀の柄にかかった手が、けれどアルベルの視線で動きを止めた。ここで刃を引き抜いたなら、認めたくない言葉を認めることになる。けれど、黙っていても同じことだ。
――女の身体は、処理しきれない感情に視界をにじませる。思い通りにならない自分の身体までもが、悔しくて仕方ない。
「……じゃあ、偉そうなこと言うあんたはどうなんだい……っ」
奥歯をきしませて右手で短刀の柄を握りしめて。左手でぐいと涙をぬぐえば、一瞬だけ視界がクリアになった。あふれる涙ですぐに元に戻ってしまうけれど。
――だったら、アルベルはどうなのだ。
確かに、ネルよりも多少早くフェイトたちと一緒に行動していて。その分彼らにとっては未知の物事に、耐性ができているかもしれない。けれど、結局のところ完璧に理解できるはずもないのだ。事態についていけないのは、混乱しているのは同じではないのか。
「阿呆」
いつもどおりの憎たらしい声。予想外に近くて思わず後退ろうとしたら、それを狙っていたかのように抱きすくめられる。変にかまえていたせいで反応に遅れて、ただでさえ腕力差があるのでもう逃げられない。
悔しい。
「阿呆……面倒なことなんざ考えなきゃいいんだよ。目の前のこと一つ一つ乗り越えりゃすむことじゃねえか。全体理解しようとするからわけ分からなくなるんだ、とにかく目の前と……一歩先のことだけ考えてろ」
「……この、馬鹿……っ、結局あんただって……!」
「欲かいてテンパって、混乱することに意味があるか? 今までの経験を、この国にこの――ホシ? に生きていたことを、全否定するつもりか。
仕方ねえんだよ、わけ分かんねえもんはどうしようもねえ。時間かけりゃどうにかなるかもしれねえが、数十年の差を一朝一夕に埋めようだなんて阿呆も良いとこだろうが」
なんだか、自分に言い聞かせているような言葉。諦めずにもがきながら、ネルは眉を寄せる。
――ひょっとして、こいつもこいつなりに悩んだりしたのだろうか。この単細胞が単細胞なりに、分かろうと努力していたことがあったのか。
「あいつらの常識と俺たちの常識は、違うもんなんだ。
良いじゃねえか、変なことしたって笑われるだけだ。どのみち、この件が片付きゃこっちに戻るんだろ。その後笑ってたやつらがどう思おうが何をしようが、関係ねえよ。開き直っちまえ」
「……いや、あんたの常識とあたしの常識にも差があるし」
「なんだって良いだろうが。答えが存在しねえことで、悩んでる方が阿呆だ」
わけの分からない世界に引っ張っていかれて、わけの分からないものを見せ付けられて。合図したらその瞬間に別の場所に移動して、ボタンを押すだけで何もなかった場所にアイテムが現れる。
理屈を考えても、根本の知識が足りない彼女には――確かに考えようとすることそのものが意味を成さないかもしれない。
いつの間にか涙が止まっていて、それに気が付いたのでネルは手の甲で頬に残ったそれをぬぐった。
そんなものでいいのかもしれない。涙が出た理由は突き詰めたりしないで、流れたら、止まったらそれをふき取る。それでいいのかもしれない。涙の理由が分かったところで、どうにもできないかもしれないのだ。
理解できるにこしたことはない。けれど、意味がないことなら最初から諦めてしまった方がきっと楽だ。どうにもできないことなら、仕方がないからと開き直ってしまった方が楽だ。
「――たかがそれを言いに来たのかい。馬鹿だね……」
いくらがんばっても振り払えないので、諦めたネルはアルベルの胸に顔を埋めた。不覚にも――変わらない、懐かしいにおいに安心して、今度は安堵からぽろりと涙がこぼれる。
「……まあ、ついでだしな」
何の。
せっかくうまいところ落ち着きかけた話を、その一言でぶち壊しにして。おとなしくなったネルをいいことに、男の手が――、
「あんたやっぱり一般常識ってもんを身に付けなこの超巨大馬鹿男!!」
せっかく、せっかく見直してやろうかと思ったのに……!
ネルの怒声が周囲に響いて、――秀麗な城の一角が轟音に揺れた。
