恋とか愛とか、そういう甘やかな感情とは無縁だと思っていた。無縁のはずだった。自分のミスで父を亡くしたあの日から、そういう甘いものとは自分から距離を取った。
そのはずだったのに。
悔しい。お前は俺の中のそんな最低限のラインすら奪い去る。忘れていた感情を、封じていた感情を勝手に呼び醒ます。
悔しい。悪びれないお前が、勝手に思い出した俺の中の感情が。
悔しい。どこまでいっても、けれどもうお前を嫌うことができないことが。
悔しい。
月明かりに雪が映える、銀色の光に青い影が躍る。――アーリグリフ、雪と氷に閉ざされた、この国の首都。
「そろそろ夕食なんだけどお前ネルさん知らないか?」
武器屋から戻ってからこっち、ずっと暖炉の火に当たっていたアルベルにフェイトが小首を傾げた。外をほっつき歩いていたのだろうか、鼻が赤くなっている。
ちらりと仰ぎ見た青年からまたぱちぱちと踊る火に目を戻して、アルベルはフンと鼻を鳴らした。
「知らねえ。……この宿には戻ってねえな」
一階のここにずっと張り付いていたアルベルが断言すると、フェイトがにっこりと――悪寒を煽る笑みを浮かべた。視界のすみにそれを見た気がして何より雰囲気が変わって、ひくりと顔を引きつらせたアルベルが再び視線を戻す。
「……何だ」
声が震えているような気がするが、気のせいだ。なんというか、ベクレル山道で刻み込まれてしまったあの恐怖感にじりじりしているなど、あくまで気のせいだ。血糊の張り付いた鉄パイプだけは取り出すな、などと心の中で念じているのは――あくまで、気のせいだ。
気のせいの、はずだ。
「ネルさん見付けるまで戻って来るなよ」
――気のせいではなかったような気がする。
逆らえない怖いものに悔し涙を流しながら、アルベルは宿屋から蹴り出された。
「……寒ぃ」
今の今まで火に当たっていたのもあるだろうが、それでなくともアーリグリフは寒い。ざわっと浮かんだ鳥肌に青筋を立てながら、アルベルはざっと周囲を眺めると手近な店屋に――、
「面倒くさがってサボるなよ」
入ろうとしたら、にこやかなフェイトが背後から声を投げ付けてきたので諦めるしかなかった。なんでこうも怯えるのだと自分に対して怒りつつ、ずかずかと道を行く。
空から落ちてくる白いものが肌に触れるたび、冷たいを通り越して痛くて。先ほどまで炎に炙られて熱かったガントレットは、今では周囲の冷気を取りこんでひたすら冷たくて。好き好んでいるこの格好が、さすがにこの国にいると寒くて。
そもそもの元凶、赤い髪の女を思わず恨む。
恨んでから。己の狭量さが哀しくなって、アルベルはひとつ息を吐いた。
「――てめえ、なんだってこんなところにぼーっと突っ立ってんだよ……」
宿を出たのは夕刻より少し早かった。山間のここは他の町よりも陽が暮れるのが早い。めぼしいところはすべて見回って、それでも目立つ赤毛が見当たらなくて、月明かりにその細い姿を見つけたのは――宿では食事もはじまっているだろうころだった。
月明かりに雪が映える、銀色の光に青い影が躍る。赤毛に黒衣の女は白い雪に浮かび上がって、まるで月の光が集中しているようにやけに儚く映る。
「……ああ、アルベル。珍しいじゃないか」
「――フェイトに宿追い出されたんだよ……ったく……なんでも良いからとっとと戻るぞ。クソ寒ィ」
不機嫌なのは、寒さからではない。少し前まではたしかにそうだったのに、今は。……今は、月明かりに消えてしまいそうにどこか遠い彼女の、その存在感に対して腹を立てていた。彼女自身にではなくて、消えてしまいそうな儚さに対して腹を立てていた。
「……情緒とか風情ってもんを学んだらどうだい? 自国の首都だろう、自慢しても良いじゃないか」
「あァ?」
ふわりと微笑んだネルがどうにもやはり儚くて、掴み止めないと消えてしまいそうで。ネルの言葉を無視してその手首を掴んで、手甲の上からでも冷え切っているそれにアルベルは舌打ちする。
「風景見たいなら部屋の中からにしろ」
「……つくづく趣ってやつを解さないやつだね。この風景はここからしか見えないんだ」
呆れたネルが腕全体で指した先。やわらかに白が侵蝕して、月明かりに星明りに、きらきら光る切片が降り注いでいる。家々からは炎のほっとする光が漏れていて、
――確かに無粋な彼の目にも、それは「美しい」と思えるものではあったけれど。
アルベルは無言で、風景に見入るネルを背後から抱き締めた。驚きでだろうびくりと身体が跳ねて、困ったような怒ったような紫が彼を見上げてくる。
「誰が見ているかも分からないじゃないか! 離しな!!」
「うるせえ……寒ぃんだよ」
嘘だ。本当は、そんな理由ではない。
「気温に文句言うなら、その格好を改めな!! 見ている方が寒いんだよ、てよりむしろ男がする格好じゃないだろ!?」
「見てる方が寒い格好はてめえも一緒だろうが阿呆」
「……語尾の忠告は無視かぃ……」
うめいたネルがわざとらしく息を吐いて、寒さにかじかんでいるのか、どこかぎこちない動きでむき出しの彼の指先部分に触れた。わざとらしく爪を立てて、しかしアルベルには別に痛くもなんともない。
たったそんな程度の報復しかして来ないネルにこみ上げる感情。とげで覆われた、覆ったはずのアルベルの心の、その中心のやわらかいところから生まれてくる感情。
やわらかな、激情。
「……きれい、だろう? 時間ごとに刻々と変化して、でもいつだってきれいだろう??
哀しいね。あたしは、こんなきれいな国を憎んでいたんだ」
「見た目だけだろう。そもそもアーリグリフがシーハーツに攻め入ったんだろうが」
「それを迎え撃ったのは、そうしようと決めたのはシーハーツさ。去年、今年と夏が短くて、アーリグリフ領内の作物の出来が悪いことは分かっていたんだ。分かっていながら無視して、」
「――ヴォックスが焦った王に付け入ったんだ」
「でも、何かができていたかもしれない。何もしなかったから、戦争を呼び込んだのかもしれない」
「過程の話なんかするな阿呆。結果的にアーリグリフはアリアスに攻め入って、こっちの領内に戦禍はゼロだ」
「……、たくさんの兵が死んだ。あたしも、殺した」
「今さら血に塗れた自分の手を見下ろすのか? 阿呆。分かっていたことだろうが。
俺の手だって血に汚れている。アーリグリフの兵も民も、自覚があろうがなかろうが手を血に染めている。シーハーツも同じだ。どっちも同じだけの罪を背負った。
今さら何を嘆く。阿呆、過去は変えられねえだろうが」
言いたいことがうまく言葉にならなくて、苛立つしかない。とげとげしさを増していく心が、しかし腕に閉じ込めた温もりでほんの少しのやわらかさを保っている。腕に閉じ込めた温もりが、泣いているような、けれど気丈な紫を向けてくる。
「……ずるいじゃないか。なんで、憎ませたままにしてくれないんだ」
わななく唇が艶を帯びた目が、言葉とは裏腹の感情を浮かべている。
「恋とか愛とか、そういう甘い感情とは無縁のはずだったんだ。他の誰がどうでも、あたしはそういったものから無縁だった。それで良いと思っていたし、そうするつもりだったんだ。隠密になると決めたあの日から、そういう甘いものとは自分から距離を取っていた。
そのはずだったのに、」
伏せられた目、指先にこもった力。きっとひどく冷えているガントレットすら掻き抱いて、彼に身を任るやわらかで温かな存在。
「ずるいじゃないか、せっかく心に誓っていたのに。忘れていたはずなのに、こんな気持ちを思い出させるなんて。それなのにあんたは悪びれないなんて。
……憎んでいたはずなのに、もうあんたを憎めないなんて。
ずるいじゃないか」
炎の色を髪に宿した黒衣の女が、この国と対立していたはずの女が、なぜだろうこの国の誰よりもこの国を愛していると思った。この国に生まれ育った彼よりも、深くこの国のことを知っていると思った。
月明かりに雪が映える、銀色の光に青い影が躍る。――アーリグリフ、雪と氷に閉ざされた、この国の首都。
美しいけれど厳しい、厳しいけれど優しい。まるで、それは――この女のようだ。誰よりも愛しい、彼にそんな感情を抱かせたこの女のようだ。封じていたはずのやわらかな心を、解き放った女のようだ。
「……阿呆」
何も言えなくて、いつもの悪態をつくしかなくて。
彼と同じことを思って、その苦しみを共有して。誰よりもしなやかで強くて優しい、そんな彼女に心底惚れた自分を笑うしかない。焦ったように手を伸ばして引き寄せて、こうして触れていても膨らむ不安を笑うしかない。
王には忠誠を誓っているし、それを後悔したことはない。自分の王に足る資質を備えた男に、頭を下げることに不満を覚えたことなどない。けれど、アーリグリフのことを愛しているかと訊かれると、よく分からない。
わからなかった、けれど。
腕の中にいる女によく似ていると思えば、愛せないはずがない。愛していないはずがない。
戦争がきっかけで紆余曲折を経てネルと知り合ったことを思えば、アルベルは――戦いがどうとか言う以前に、あの戦争を嫌うつもりはない。
ネル・ゼルファーに関わったすべてに。深くやわらかな想いを抱く。
恋とか愛とか、そういう甘やかな感情とは無縁だと思っていた。無縁のはずだった。自分のミスで父を亡くしたあの日から、そういう甘いものとは自分から距離を取った。
そのはずだったのに。
悔しい。お前は俺の中のそんな最低限のラインすら奪い去る。忘れていた感情を、封じていた感情を勝手に呼び醒ます。
悔しい。悪びれないお前が、勝手に思い出した俺の中の感情が。
悔しい。どこまでいっても、けれどもうお前を嫌うことができないことが。
悔しい。
月明かりに雪が映える、銀色の光に青い影が躍る。――アーリグリフ、雪と氷に閉ざされた、この国の首都。
街の片隅、雪と氷しかないそこで。男女の唇が、自然重なった。
