泣けばいい、泣いてほしい。それが弱さだとは思わない。泣くことと強さ弱さは、きっと関係ない。
起きてしまった過去を、過去と、去ってしまった過ちと認めるためになら。
いくらでも泣けばいい、泣いてしまえばいい。涙が枯れるまで泣いた方がいい、声が嗄れるまで泣いてくれればいい。
泣き止むまで待っているから。――待って、いるんだから。
紅蓮の炎に包まれる背中、多分別離の意味で軽く上げられた右手。まっすぐに立って前を見て、背後に庇った彼を深い色の目が振り返ることは一度としてなく、そしてその機会はその時を限りに永遠に消え去って、
記憶の中のそれは轟音に包まれているというのに。
――音が聞こえない。ただ目の前で何度もくり返される情景。
「……っ!!」
暗闇に見開かれた紅、飛び起きた身体が大きく上下するほどの荒い息。ささくれ立ったすぐ脇の気配にはっと目を醒ましたネルは、けれど何もできないことを知っている悔しさにひっそりと唇を噛んだ。
王都アーリグリフ、アーリグリフ城の一室。アルベル個人ではなく、その父親の部屋。
この街にやって来るとアルベルは立場上王城に詰めて、出発まで基本的に帰ってこない。潜伏用の民家を使えば宿代を浮かせられるからと、ネルはメンバーとは別行動をとることが多い。――その二人がこうして同じ部屋の同じベッドで休むようになったのは、いつのころからだっただろうか。
どれほど距離を詰めたと思っても、結局越えられない溝があるのだと認識するのは、悔しい。哀しいのではなく、――どこまでも悔しい。できることなら何だってしてやるのに、何をどう足掻いてもその溝だけは埋められないことを知っている。その事実が悔しくて悔しくて、
できることといえば、気付かないでいることだけ。そのふりをすることだけ。
そうと分かっているから、……ただ、悔しい。
虚ろに荒い息を吐いていたのが、やがて少しずつ落ち着いていく。何も映していなかった、夢しか、過去しか映していなかった紅が現在を少しずつ認識しはじめる。我に返れば奥歯が砕けるほどきつく歯噛みして、左肩に爪を突き立てる。
――その夢を見るたびの、すでに癖なのだろう。彼の肩に無数の痕が残っていることを、重度の火傷痕だけではなく爪の痕が残っていることを、彼女は知っている。
「……クソ……っ」
小さく吐き捨ててようやく感情をおさめたのか、やや乱暴に前髪を掻き上げる。青白い月光に紅があらわで、そこに浮かぶ感情が、怒りが憤りが苦しみが切なさが悔しさが哀しみが淋しさが憎悪が……痛みが。目に見なくても雰囲気だけでもあらわで、彼の胸に今もぽっかり開いた虚ろな大きな穴を、まるでその縁に立って見ているようで、
――痛々しくて、
「――ん……」
見ていたくなくて、小さな声を上げる。まるでふと眠りが浅くなったような、本当はとっくに目醒めているけれど、夢から浮上するようなそんなうめきを上げる。
「っ!!」
もぞもぞと動いてみせれば鋭く息を呑んで、残った激情を無理矢理呑み込もうとしているのが分かる。もぞもぞをしばらく続けて、彼が完全に落ち着いたのを感じ取って、
「……あるべる……?」
ぼうっと目を開けていかにも寝起きの呆けた声で呼べば、今度こそまっすぐ見えた紅が、夜目になんとか落ち着きを装った紅が、フン、といつものようにふてぶてしく細くなる。
「――なんだ、……ネル」
――けれど彼女の名前を呼ぶ声が、つんと鼻の奥に痛い。
アルベルがネルの名を呼ぶことは、ネルがアルベルの名を呼ぶことは、こんな関係になった今でも滅多にない。恥ずかしさやら周囲への警戒やらのせいもあるけれどそれだけではなくて、多分それはきっと癖なのだと思う。
癖だから。
だから、互いの名前を呼ぶのはよほどの時で、その事実が今は哀しい。
「……なんだろう、今、何かがあったかい……? 何か変な気配、感じたような気が、」
「何もねえよ」
ざっくりと言い切る刺を含んだ声。ささくれ立ったままいまだ完全には落ち着いていない、それが分かってネルは内心息を吐く。きっと寝ぼけたふりを続けてそれには触れなければ良かったのに、一度出してしまった言葉はもうなかったことにできない。
なかったことにはできないけれど、こちらが半覚醒だと思っているのなら、
「――寒い、ね……」
「分かりきってることだろうが。また吹雪いてやがるしな」
遠く窓の外に轟々と唸る音が聞こえて、けれどそうではないからネルは弱々しく微笑む。寒いのは、今一番凍えているのはアルベルの心なのに、ネルが知らないと思っているアルベルにはそれが通じない。
悔しい。
「アルベル……」
悔しいから、甘えるふりをして彼に抱きついた。直に触れた肌に確かな鼓動を感じて、ほっと安心する心を彼に分けてやりたいと思う。悪夢に起こされてまだ動揺の収まりきっていない心を、過去の傷に今も血を流している心を、癒してやりたいと思う。
悔しい。
ふてぶてしいだけなら良いのに。強がった弱ささえ見せられなければ、癒してやりたいなどと思わなくてすむのに。身体だけの関係だと、多少の愛着を感じてもそれだけなのだと、突き放すことができるのに。
「ふふ、……あんた、暖かい」
「うるせ」
少しだけ柔らかくなった照れ隠しの毒づきに、ようやく震えの収まった彼の腕がネルを包み込む。癒してやりたいのに、結局は彼女にだけ安堵ばかりが与えられて。
――悔しい。
もしも彼を傷付けずにすむのなら、言ってやりたい言葉がある。
――「泣け」、と。
命令でも懇願でもなんでもいい。そう伝えたい。きっとそれは自己満足で、自分のために伝えたいのだと思うけれど。エゴの押し付けだと分かっているけれど。ぼろぼろになりながらなおそんな自分を認めないで強がっている彼に、ただひとこと言ってやりたい。
ぼろぼろの彼を傷付けるのが怖くて、――言うことができない言葉。
きっと「今」のアルベルに、一番大きな影響を与えた「父親の死」に対して。遠い過去と言ってもいいような時間が流れた今も、多分彼は今まで一度として泣いていない。泣くことで事実を認識するのが嫌なのではなく、きっとそのタイミングを見失ったのだと思う。一度逃したタイミングはなかなか訪れず、そのうちに「泣くのは弱い」という認識でもってますます涙を封じ込めた。意固地になった。
不器用な男、馬鹿な男。――ネルは、思う。
「少年」だった彼が「青年」になって「男」になって、けれど泣けなかった分彼の心は今でもまだそこで成長を止めている。成長することを拒んでいる。時間の流れが身体だけを大人にして、しかし心は、その一部分は今もまだ子供の脆さを残している。
不安定な心を自覚しないで、目に見える「強さ」だけをただ追い続けて。心を置き去りにして「強さ」を「成長」だと勘違いして。
そんな彼に、だからネルは言ってやりたい。脆い心が砕けないうちに砕けないように、ただひとこと言ってやりたい。
――「泣け」、と。
言いたいけれど言えなくて、首に回した腕に力を込めた。その分さらに強く抱きしめられて熱い息が首筋に落ちて、
――ずるい、と思う。無意識に癒しを求められれば、多分同情から拒むことができない。拒もうとも思えない。ささくれ立った心になめらかさが戻るのなら、渇きひび割れた心に潤いが戻るなら。彼女に見えている、本人は気付いていないあの虚ろな胸に穴を少しでも埋めることができるのなら。……そう思ってしまえば、拒めない。
自覚できていない弱さを、癒してやりたい。
「明日は、晴れるかい……?」
「さあな。……この時期の天気は誰にも読めねえよ。今これだけ吹雪いてりゃあ、古傷だって疼きっぱなしだ」
すがるような腕を振り払えずに、彼の肩に残った傷に指を這わせて、
「――あたし、こんなとこに爪立てたっけ……?」
知らないふりをしてつぶやけば、重なった唇にそれは押し込められて。嘘を吐けない男が、やはりどこまでも不器用で馬鹿な男が。同情だけではなくてふと愛しいと思う。ほだされて引き返せない自分が、笑えてくる。
「……変だけど、きれいだね。晴れているのに吹雪いてる」
「いい加減黙れ。外ばっか見てんじゃねえ」
「おや、風景にやきもちかい?」
「黙れ、っつてんだろ……ネル」
包み込むような熱さが、悔しい。
――……哀しい。
泣けばいい、泣いてほしい。それが弱さだとは思わない。泣くことと強さ弱さは、きっと関係ない。
起きてしまった過去を、過去と、去った過ちと認めるためになら。
いくらでも泣けばいい、泣いてしまえばいい。涙が枯れるまで泣いた方がいい、声が嗄れるまで泣いてくれればいい。
泣き止むまで待っているから。――待って、いるんだから。
月明かりに吹雪いている、それがネルには不思議に映る。ふと見えたそれが美しくて、美しいから涙がこぼれた。青い世界に踊り狂う白い欠片が、なぜだか哀しくて涙がこぼれた。
寒くて淋しくて美しい。それがまるでこの男のようで。
――仕方ない。今はあんたのかわりに、泣いておいてやるさ。
誰よりも熱くて淋しい男に、ネルが心の底で告げて、
月の下の吹雪は、明け方まで続いてから――晴れた。
