誰に教えられたわけではなく、けれど知っていたこと。たとえ記憶をすべてなくしても、己のことよりも先に思い出したこと。そもそも忘れることすらなかったこと。
きっと、
――「頭」が覚えていたのではなく、「心」が知っていたこと。
「……ル……」
何か声が聞こえる。
「……っと、おき……ルベル!」
うるさい。もうしばらくほおっておけ。
「ア……ベル! 目ぇ醒ましな……!!」
「……るせ……」
「アルベル!!」
耳に馴染んだ声に呼ばれて、まどろんでいた意識が急速に浮上する。身体を頭を動かすのがひどく億劫で、まだまだ眠りの海にたゆたっていたいのに。この声に呼ばれると、どうにも逆らえない。
そうしてだいぶ覚醒した脳が、不意に鈍く鋭い痛みを認識した。
「――ぁ、ぐぅ……」
一度気付いてしまえばそれは無視できるものではなくて、思わず小さなうめき声が上がる。自分の上げた声で意識はさらに浮上して、その分さらに痛みは強くなった。呼吸すら妨げるほどに強く痛んで、あまりの痛さに具体的にどこがどう痛いのか分からない。もしかしたら全身あますところなく痛いのかもしれない。そんなことすら分からない。
「――ようやく、起きたね」
ほっとした声。彼は予想よりもずっと間近く聞こえたそれに目を瞬く。
「……て、め……何してやが……ぅ、」
「そう思うなら手を離しな」
言われた言葉をゆっくり反芻する。
周囲はやたらと暗く、時おり白い。というか寒い。吐く息が白く白く宙に溶けて、肌が出ている部分は寒いを通り越して痛くて、あまりの寒さに感覚が鈍くなっている。背中はやたらとごつごつしていて硬くて冷たくて、そしてやはり痛い。そんな場所に彼はどうやら横に――斜めになっていて、そんな自分の上に女がのしかかっている。
赤毛に黒衣の女の腰を、彼の腕がどうやらしっかりと抱きかかえている。
「……っ!?」
把握した瞬間思わず飛び退こうとして、しかし動けなくて。それでも腕は外すと、やれやれとばかりに女が起き上がって大袈裟に肩をすくめた。
「……ここは……つーかなんで……ってー」
「文句はとりあえず怪我治してからにしな。あんたヒーリング使えるだろ」
身を起こして、しかし女は退かない。重くない程度に触れた肌から伝わる温もりは、女を突き飛ばすにはあまりに心地良い。何しろ、寒いのだ。あたたかいものが触れているのは何より身体が歓迎する。
とにかく言われるままに癒しの呪文をつぶやいた。わけが分からないままに発動したそれは、温もりというか熱に化けて背面および後頭部に集中する。そうしてやっとそこが痛かったのだと分かって、けれど一回ではそう自覚する程度にしか治らなくて。
二回、三回とくり返し唱えて、そしてようやく人心地着いた。
「……よく生きてたもんだな」
自分に感心する。人心地着いたといっても完治したわけではなくて、後頭部などには特にまだ痛みが残っている。数回呪文を唱えてこうだから、つまりそれだけ体力を失っていた――死にかけていたのだろう。
さすがの彼も少しぞっとする。
「まったくだよ……気が付いたらあんたの顔色真っ白だし。くっついてたおかげで鼓動は――生きてることは分かったけど、それもどんどん弱くなっていくし。怪我した場所が場所だから、下手に揺り動かすこともできないし」
「――そうか」
「応急処置しようにも、がっちり抱えられていて全然動けないしさ」
そういう彼女の視線の先、夜目に背後を――頭上を見やって、今度こそ鳥肌が立った。
なだらかなんだか急なんだか分からない岩肌に、彼が滑落した跡が言われなくても分かる。そこに赤く血の筋がべっとりと走っていて、本当によく生きていたものだといっそしみじみ感心する。
「――で、ここはどこだ?」
「覚えてないのかい? アーリグリフの地下水路。フェイトたちとは――完璧にはぐれたね」
言われても思い返そうとしても全然わけが分からなくて。眉を寄せる彼に、女がふーっと長い息を吐いた。
「バニッシュリングを手に入れて、あの馬鹿有頂天になってクロセルのことほったらかしであちこち行ってるだろ。宝箱を全部回収するとか言いながら」
「あー……」
……言葉を切ってきょとんと首をかしげて、
「打ちどころが悪かったりするのかい? なんだか反応がいつもより鈍いけど」
「……そうかもしれねえ」
かなり豪快に流血したおかげで、どうにも貧血気味の頭を振る。視界がくらくらして頭がぐらぐらして、なんだか気分が悪くなる。
「なんつーか……さっきから思い出そうとしてるんだが……」
「うん」
「――俺は、誰だ……?」
「――……は?」
紫の目をいっぱいに開いてぎょっとした顔をする。いっそ指差して大笑いしてやっても良いその間抜け面と、しかし彼は困った顔でただ見つめ合った。
「……じ、冗談はか、」
「あいにくそういうボケは嫌いなんだが」
ややあってうめいた彼女の言葉をさえぎって、アルベルが半眼になった。あうあうあう、と口をぱくぱくさせる彼女の頬をそっと包み込む。
「お前は――俺を知ってるのか?」
「う、……そりゃあんたが本当に何も覚えていないってんなら、そんなあんたよかいくつか知ってることあるけど。本当の本当に、思い出せないってのかい?」
「だから、そういう冗談は……」
否定しようとしてふと眉を寄せる。
「そういう冗談口にするやつなのか? 俺は」
「は? ……いや違う違うあんたは自覚して冗談なんか言える奴じゃない。ただ時々ものすごく天然ボケだったり、自覚なしにとんでもないこと口走ったりするから、」
触れた頬はなめらかで、指先にかすかに当たる髪はさらさらと流れて、どちらもとても触り心地がいい。それが気に入って何度も撫でていると、戸惑った紫がそんな彼を映した。
「お前、俺の――恋人なのか?」
「こ……っ!」
夜目にも女の顔が一気に真っ赤になったのが分かった。触れた肌が一気に熱を帯びて、やわらかそうな唇がわななく。――けれど言葉が出てこなくて、
「違ってたか」
じゃあ、こんな風に触れるのは良くないのかもしれない。――そう思いながら、しかし振り解かれないので手はそのままにして、
「――お前の、……いや、俺の名前は?」
「だからそういう言葉いきなりさらっと言うのが……、
え、ええと……あんたの名前はアルベル。アルベル・ノックス。あたしはネル・ゼルファー。……あんたはアーリグリフの漆黒団長で、あたしはシーハーツのクリムゾンブレイドで、ちょっと前までシーハーツとアーリグリフは戦争やってて、」
アルベルは眉間にしわを寄せる。
「俺とお前は敵同士なのか? だったらさっき、声なんかかけずにとっとと首とかすっぱり斬っとけよ。まだるっこしいやつだな」
「――あんた、本当に記憶がないのかい?」
はあ、と女――ネルが大きく息を吐いて、その仕草がなんとなく見覚えがある。
「ちょっと前に休戦協定結んで、今は別の敵に対抗するために一緒のパーティ組んでるんだ。地下水路に来た理由はさっきの通り。それが変なとこでモンスターに襲われたせいで、あたしとあんたは坂道すべり落ちて、他のやつらと今はぐれてるけど」
「……じゃあ、お前は俺の味方なのか?」
「うん」
やけに幼い仕草でうなずくネルが何だか可愛くて。恋人という言葉を否定されたにも関わらず、アルベルは彼女を抱き締めていた。とても落ち着く、しっくりくる。
……何より、ネルが抵抗しない。やがておずおずと彼の背に腕が回って、
「――本当に、お前俺の恋人じゃねえのか?」
抱き締めた身体がぎくりと跳ねて、あわててじたばたもがきはじめたのは――嫌がっているというよりも照れている動きのようで、アルベルは手をゆるめるのをやめた。そのまま観察していると、非難の色濃い目が――潤んだ紫が見上げてくる。
なんだか心臓が跳ねる。
「ネル。……お前は俺の何だ……?」
「――あんた本気で記憶がないのかい!? あたしをからかってるんじゃないだろうね!!??」
「あァ? んなわけあるか阿呆。……否定しないなら肯定と取るぞ」
「は!?」
最後通牒のつもりでつぶやいても、わたわたしているだけでやはり否定だとか拒絶だとかは向けられなかった。少し待ってみてもやはりそのままなので、アルベルはすっと目を細めると、先ほどからどうにも気になっていたその濡れたような唇に――、
誰に教えられたわけではなく、けれど知っていたこと。たとえ記憶をすべてなくしても、己のことよりも先に思い出したこと。そもそも忘れることすらなかったこと。
きっと、
――「頭」が覚えていたのではなく、「心」が知っていたこと。
今ここにいる彼女が敵ではないこと、誰よりも信用に足る人間だということ、何よりも愛しく大切で、きっときっと――彼の「宝物」である、こと。今までもこれからも、ずっとずっと彼の「特別」だということ。
「あんたやっぱり全部覚えてるじゃないか! 記憶がないのが本当だとしても行動パターンは丸っきり一緒じゃないかこの破廉恥男!!」
ごん。
ネルのわめき声がして、何がどうなったのか頭に痛みが走って視覚が暗転して。
次に目を醒ましたときには彼はすべてを思い出して記憶を失っている間のことは変わりにすっぱり忘れていて。
ネルが怒りながらもなんだか喜んでいる、そのことは分かっても。その理由が分からなくて頭をひねるハメになった。
