一見つまらなそうな紅に、熱に潤んだ紫が映っていた。息が乱れて身体中熱くて熱くて、そして寒くて。脳味噌が煮えているのか、脳裏にはとりとめのない単語しか浮かばなくて。
ただ黙ってそこにいる男を、ただ黙って見上げていた。意地ではなくて今はただ純粋に、目をそらしたくなかった。
熱くて寒くて、――頭が混乱している。

―― 欲望 [本当はそう言って欲しかった]

数日前から確かになんとなく体調が悪かったのだけれど。
「……じゃあ、そろそろ出発……ってネルさん!? 大丈夫ですか顔色悪いですよ!!」
「――平気だよ、フェイト。行こうか」
ある日の朝、出発直前。フェイトに指摘されたネルは内心舌打ちをした。あとで化粧でもして顔色誤魔化さないとああ化粧道具どこにしまったっけ、などと考えながらとにかく出発しようと脚を踏み出す。踏み出そうとしたところで、
「阿呆」
「っ、な!?」
確かになんとなく体調が悪かったのだけれど、動けなくなるほどひどいわけではない。そのはずなのに、いきなり抱き上げられてひどく驚いた。思わず暴れてけれど腕はびくともしなくて、何より抱き上げられるまで背後に立たれたことに気付かなかった自分が信じられない。
「これだけ熱出しといて反応鈍くなっといて、阿呆なことほざいてんじゃねえよ。……おい、今日の出発はとりやめだ。いいな」
横抱きにされて間近に見えた顔。鋭い紅がフェイトを向いていて、それになんだか頭がくらくらする。くらくらしながらももがいてもがいて、それでも、注意はこちらに向いていないはずなのに彼女の抵抗をまるでものともしないのがなんだか悔しい。
そうして暴れながらも、彼女の耳は周囲の音を拾っていて、
「――ネルさんの回復待ち、だね。分かった」
「おう。ゆっくり養生しろよ」
「仕方ないわね、早く治してね?」
――仲間たちが口々に言うのを、信じられないものを見るような目で見渡した。暴れる動きが止まって頭の動きも止まって、
「ち、ちょっと……っ! 冗談じゃないよ、悠長にしている暇は――」
「ないですよ」
「だから途中でぶち倒させるわけにいかないんだろうが、阿呆」
真剣な紅がとうとう彼女を射た。たったそれだけで、くらくらしていた頭がさらにぐらぐらする。暴れても暴れてもまるでこたえない力強さに、なんだかどきどきする。
くらくらしてぐらぐらしてどきどきして、――気が遠くなる。
確かになんとなく体調が悪かったのだけれど。動けなくなるほどひどいわけでもなかったのに。
なかった、のに。
――ネルの意識がふつりと途絶えた。

◇◆◇◆◇◆

……意識が、漂っている。
暗い、どこまでも暗い世界にネルの意識が漂っている。伸ばした手の先さえ見えない、鼻をつままれても分からない、そんな深い闇。そもそも今の自分に手があるのか鼻があるのかすら、実感できない曖昧な意識。
闇に、黒に呑み込まれて。
ひどく暑苦しくて、やけに冷たく凍えていて。息が苦しくてもがいても、まるで楽にならないどころかもがいている実感すらない。四肢すべての感覚がなくて、それなのに苦しいことだけは確かで。
苦しくて不安になる。熱くて寒くて苦しくて、……頼るものが何一つなくてひどくひどく不安になる。
――誰、か。
声を出してみても、音は耳に届かなかった。けれど水の中で不用意に口を開けたように、肺から酸素が根こそぎ奪われた。そんな感じにさらに息が苦しくなった。それでも、黙っていることが怖くてネルは力いっぱい声を上げる。
――誰か、助けて。
苦しい。苦しくて熱くて寒くて、不安で不安で不安で、……怖い。
――誰か、助けて。あたしに触れて、あたしを呼んで。あたしは今生きている、ここにいると、どうか声に出して教えて。
闇がのしかかってくる、息苦しさが増す。四肢の感覚は相変わらずなくて、やはり怖い。自分の存在が自分で確認できなくて、怖い。今ここにいるのだという実感がなくて――怖い。
――誰か、
そうして自分にも聞こえない声を上げるネルの脳裏に真っ先に浮かんだのは、紅の瞳を持つ野生の獣みたいな男。自分の弱いところを認められない、きっと誰よりも脆い男。そう思っているくせに、真っ先に浮かんだのはその男で。彼女には、けれど自嘲する余裕すらなくて。
――助けて、……アルベル。
おねがい。あたしを助けて、この闇の中から救い出して。――おねがい。
感覚のない手を必死に伸ばした。助けて、もらいたかった。

何かひやりと冷たいものが額に触れている。
ぼんやりと認識した瞬間意識が一気に浮上して、ネルははっと目を開いた。見覚えがあるようなないような部屋の、かなり豪華なベッドに寝ている自分を発見する。こちらは完璧に見覚えのある男がそんな自分を覗き込んでいて、目が合った瞬間顔を背けられた。
「……ここは……」
言う間にもネルの頭はめまぐるしく動く。
確か、カルサアの宿屋の一階にいたはずだ。星の船撃退のためにクロセルの協力を仰ごうと、バール山脈に出発しようとしたところだった。出発しようとしたとこで体調不良がフェイトにパーティメンバーにバレて、そして――気を失ってしまった。
思い出して、けれどこの部屋はどう見ても宿屋の内装にしては豪奢すぎて、
「……ここは……?」
同じ言葉をつぶやく。背けられていた顔が、いかにもしぶしぶ彼女に向く。
「クソジジイの屋敷だ。……ったく、たかが風邪で倒れる直前まで無理してやがって」
「?」
「――さっきに医者に診せた」
「……ああ」
うなずくと同時、男の鉄爪が動いたのが見えて。先ほどひやり冷たかったのはこれかとネルは目を細める。濡れた布をと考えないあたり実行しないあたり、いかにもらしいな、と思う。
そうして静かにしてみれば、ずいぶん呼吸が乱れている自分に気が付いた。身を起こそうともがいても、身体が鉛よりも重い何かでできているように、ひどくだるくてまるで思うように動けない。
「……大丈夫、だと思ったんだよ……動いていればすぐに治る、って」
「いいわけはいい。……過労がどうとかとも言ってた。今まで無茶してたのが祟ったんだろう」
「こと無理無茶無謀に関して、あんたにだけはツッコミ入れられたくないね……」
「言ってろ」
それでも、なんだかんだと軽口を交わしながらもここにいてくれる男が嬉しい。たかがその程度に嬉しがることで、ネルはそれだけ弱っている自分を自覚して。けれど心の動くままに淡く口の端をゆるめる。
「――みんなは?」
「暇つぶしもかねて工房で薬調合するとかなんとか。……フェイトが騒いで、残りはその目付けだな」
「あんたは?」
「せせこましい作業は嫌いなんだよ」
憮然とした声から、すねてそっぽを向いたのが分かって。ネルは目を閉じたままくすくすと笑った。
「嫌いじゃなくて、苦手なんだろう? 鍛冶以外、確か全般ダメだったよね」
「――喧嘩でも売ってやがるのか?」
「いいや」
――そんなつもりは、ない。
目を閉じると視界を閉ざすと、先ほどの悪夢を思い出して。誰もいない世界にたった一人取り残されるような気がして。夢の影響が残っているのだろう、怯えた心が怖がって悲鳴を上げる。上げているのが、分かる。
だから。軽口でも喧嘩でもいい、何かを話していたかった。そんなことは決して口には出せないけれど、それでも何かを話していたかった。その声を聞いていたかった。
昔は存在すら神経を逆撫でた、けれど今は何よりも愛しい相手の声を。声を聞いて、その存在を確かめたかった。

◇◆◇◆◇◆

そうは思ってもそれきり会話の糸口を見失って。しばらく逡巡したあげく、ネルは小さく息を吐く。
「――ねえ、しばらくここにいてくれないかい?」
「あぁ!?」
「せめてあたしが寝入るまで」
ふっと目を開く。予想以上にずいぶん近い場所に、男の顔がある。
「おねがい……アルベル」
あの夢と同じように、けれど今度は耳に届く切ない声。
一見つまらなそうな紅に、熱に潤んだ紫が映っていた。息が乱れて身体中熱くて熱くて、そして寒くて。脳味噌が煮えているのか、脳裏にはとりとめのない単語しか浮かばなくて。
ただ黙ってそこにいる男を、ただ黙って見上げていた。意地ではなくて今はただ純粋に、目をそらしたくなかった。
熱くて寒くて、――頭が混乱している。

「――てめえがんなガキみてえなワガママ言うとはな」
じっと真剣にネルが見つめているとアルベルが大袈裟に息を吐いた。見間違いかと思うくらいに淡い優しい笑みが、いつもは絶対に目にしない、夜にだって数えるほどしか見たことがない笑みが目の端に口の端に浮かんだ。まるで子供をあやすような、どこかぎごちなくて優しい動きで、ネルの額、薄く浮いた汗ではり付いた髪をはらう。
「貸しにしといてやるから、大人しく寝ろ」
「……うん」
優しい動きに誘われるように、ネルの意識がとろとろとまどろむ。枕元の気配がさらに息を吐いて、そんな彼女の手を優しく取り上げる。
「――安心して、寝とけ。ここにいてやるから」
まどろみの中、普段の彼からは想像すらできない優しい声がする。重ね合わせるように優しく優しく、大きな手に包み込まれている。

「俺はここにいるから。てめえは安心して寝てろ、風邪なんかとっとと治しやがれ。
だから、――泣くな。ネル」
黒い闇に怯えるネルを、怯えて小さくなる心をほぐす声。
つぶやくように命じられて。
ネルの頬を、――一粒だけ涙が伝って落ちた。

―― End ――
2004/10/23UP
本当はそう言って欲しかった / 創作さんに15のお題_so3アルベル×ネル_
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欲望 [本当はそう言って欲しかった]
[最終修正 - 2024/06/14-15:21]