もの言わず伸びた腕が、彼を縛るしなやかな枷になった。引き千切ろうと思えば簡単にできるはずなのに、絶対に壊すことのできない枷になった。紫の瞳が深く澄んだそれが、まっすぐに彼を射てその心を雁字搦めにする。
もう、逃げられない。
――逃げようと、思う心すら絡め取られる。

―― 輪回 [朝には紅顔ありて夕べには白骨になる]

ある日、ペターニの宿屋で。夕食後のほんのちょっとしたひととき。
「――あんたもう少し自分の身体をいたわってやりなよ」
「うるせえ。……本当にどうでも良かったら、こうして傷の確認なんかするわけねえじゃねえか阿呆」
男部屋の一番奥のベッド。上半身の装備を脱ぎ捨てたアルベルと、その背後に座り込んだネルがいた。
部屋には他に誰もいない。他のメンバーは、多分まだ食堂でまったりとくつろいでいるはずだ。

「威張るんじゃないよそんなこと……さてと」
彼女に向けられた背中、彼が説明するまでもなく。肩口、敵の攻撃に抉られたところが、痛々しい痣を残している。
「……何だか痛そうなんだけど。本当に疼くだけなのかい?」
「触らなけりゃどうってことねえ……って、だから触んじゃねえ!」
つきつきとなんだか疼くだけのそこだが、つ、と指先がたどればさすがにそれは痛い。思いっきり顔をしかめたアルベルが背後に顔を向けて怒鳴ると、わざとらしく息を吐いたネルが傷痕をそっと包み込んだ。口の中で唱えた呪文にてのひらに光が凝って、急速に癒されていくのが、なんだかむず痒い感覚が広がることでアルベルにもよく分かる。
「――見えない場所の怪我ってのは、施術じゃ癒しにくいんだよ。覚えときな。
ずっと違和感あったんじゃないのかい? なんで言い出さなかったのさ」
「どうだかな。……と、もういい。十分だ」
アルベルが身じろぎして、傷痕からネルの手が外れる。だいぶ薄くなったとはいえまだ痣はそこに残っていて、むっと顔をしかめた彼女がその後頭部をはたいた。
恨みがましい紅の視線を、半眼になった紫が迎え撃つ。
「見えてないくせに勝手に判断するんじゃないよ。まだ終わってない。大人しくしてな」
「……クソっ」
何をどう言おうが最終的には丸め込まれることは、経験上嫌というほど分かっている。
そっぽを向いたアルベルが胡座をかき直して、ふう、と呆れの息を吐いたネルが再び癒しの呪文を口の中で唱えた。

今日の戦闘中に負った怪我を、アルベルはその場で自分で癒したものの。どうやら癒しきれていなかったらしく、夕食時になってなんだかつきつきじくじくと疼き出して。
様子のおかしい彼に真っ先に気が付いたのはネルで、食事が終わるや否や席を立ったあとを、特に何も言わないまま言われないままに追ってきた。

◇◆◇◆◇◆

「――背中は感覚が鈍いって言うけどさ、だからって完治させない理由にはならないよ」
「うるせえよ」
呪文で癒されていく傷がむず痒くて、なんだかんだと彼に優しいネルがむず痒くて。傷が癒されていく心地良さと板挟みのむず痒さに、アルベルの顔はしかめられたまま動かない。
「――ん、こんなもんかな。他は?」
「ねえ」
言葉と共にてのひらがどけられる。つつ、と先ほどと同じように指がなぞって、今度はそれはくすぐったいだけだった。くすぐったくてむず痒い空気にどう反応して良いのか分からないアルベルは、とりあえずその場から逃げようとする。のを。やわらかなてのひらが確かめるように背中を這い回って、思わず動きを止める。
「……何してやがる」
「あんたの言葉は信用ないからね」
あっさりと言い切られて腹が立った。腹が立ったので振りほどこうとして、そうしようとしたところでなんだか体重をかけられる。顔だけ振り返れば、ネルが額を彼の背中に押し当てている。
「な……、」
驚きのあまり、喉が干上がった。戸惑う彼の背に、くすりと笑いの息が触れる。

「――もう少し、身体をいたわりな」
先ほどと同じ言葉。先ほど癒したばかりの場所に、そっと触れる指先。
「こんな生活をしていて、そうじゃなくてもあんたは軍人で。――普通の人間よりもずっとずっと死に近しいんだ。もっと身体をいたわってやりなよ」
「て、め……も、同じだろうが。何言い出しやがる、いきなり……」
肩に乗る手に手を重ねる。……かすかに震えているような気がするのは、気のせいだろうか。
「いつも、思ってるんだ。いつだってあんた、無茶ばっかりしてるじゃないか。敵に距離取ることしないで、相手がなんだろうと突っ込んでって。
……今は良いけど、背後を守るやつがいれば良いけど。あんたの闘い方じゃ似たような技量、闘い方のやつが近くにいないと、――敵が複数であんたが一人だったら、そのうち背後から襲われて、死ぬよ」
背中に触れる息がなんだか乱れているような気がする。背に触れる指が爪を立てて、その甘い疼きが肌に伝わる。
「――そんな闘い方していて、それでさらに怪我の治療がいい加減で……いつ死ぬか分からないじゃないか」
「……何が言いたいんだ、てめえ」
動けない。なぜか弱々しい雰囲気のネルを抱き締めたいのに、なぜか儚い彼女を抱き止めたいのに。拘束されているわけでもない身体が、動けない。
アルベルの背に額を押し当てて、触れる手が爪を立てて。表情の見えないネルが、なんだか不安になるのに。
動けない。
「たとえ朝はぴんぴんしていても。夜を迎えることなく死ぬことだって、ありえるじゃないか。ちょっとした怪我だからって放っておいて、それが原因で体力削って、それで死ぬかもしれないじゃないか。
闘い方は、変えろといって変えられるもんじゃないかもしれないけど。だからせめて、怪我くらいしっかり癒しなよ。身体、いたわりなよ」
押し当てられていた額が浮いた。顔だけ振り向いていた彼に、ネルが顔を上げた。涙を見せずに、けれど泣いているような顔が儚く微笑んで、
すがり付くような腕が、アルベルの首に回る。

◇◆◇◆◇◆

もの言わず伸びた腕が、彼を縛るしなやかな枷になった。引き千切ろうと思えば簡単にできるはずなのに、絶対に壊すことのできない枷になった。紫の瞳が深く澄んだそれが、まっすぐに彼を射てその心を雁字搦めにする。
もう、逃げられない。
――逃げようと、思う心すら絡め取られる。

「――生まれ変わったら、」
甘い甘い声でささやく、息を呑むほど美しい女。
「たとえ死んで生まれ変わっても、あたしはあんたを見付けてやるよ。どんな姿になっていても、絶対に見つけ出す。それだけの自信は、あるさ」
無意識に動いたアルベルの腕が、いっそ恐々と彼女を抱き締めた。抱き返されたことに目を細めて、やわらかな唇が続ける。
「それだけの自信はあるけど、……でも、あたしはあんたに死んでほしくない。
悔しいけど、確かに昔はあんたを憎んでいたけど――アーリグリフの漆黒団長に、嫌う以外の感情向けることになるなんて、思ってもいなかったけど。今は、……今は、あんたに死んでほしくない」
きゅっと細い腕に力が入る。しなやかな身体がさらに強く押し付けられる。
「……何言い出しやがる、いきなり」
何とか上げた声は掠れきっていて、情けなくて目を見開けば、まるでそのかわりというように女がふっと目を伏せた。
「さっき、」
至近距離に彼女が伏せたまつげが肌をすべって、それがくすぐったい。
「さっき、あんたの背中の傷見た時、」
触れ合った肌がほのかにあたたかいそれが、なぜだろう、なんだか嬉しいと思う。きっと真面目に甘い言葉をささやく彼女に、そんなことを考えている場合ではないと思うのに、
「あんたはきっと分からないと思うけど――、心臓がぎゅっと痛くなったんだ。あの傷がまるで死神か何かの手の痕に見えて、あんたの心臓を抉り出そうとしているように見えて、」
細い首筋に顔を埋めれば、多分髪がくすぐったのかかすかに跳ねるしなやかな肢体。
「――確かに……あんたもあたしも、死神にとりつかれているみたいなもんだろう。別のやつら――モンスターとかから見れば、あたしたち自身が死神だろうと思うよ。思うけど……、
あんたがどれだけ死に近しいのか、なんだか思いっきり付き付けられた気がしたんだ」
触れ合った胸から鼓動が響いて、唇を落とした首筋から鼓動が響いて、確かな温もりとその鼓動が、彼を包み込むような彼女のにおいが鮮やかな赤毛が。確かに彼女の生を伝えている。それがとてつもなく嬉しくて、居心地が悪くなるほどの幸せを伝えて。
――安心、する。

アルベルは目を伏せた。
「――……阿呆」
しなやかに彼を絡め取る手が引かないから。細い身体を抱き締めて、形の良い耳に唇を寄せる。
「勝手にいらんこと考えて、勝手に不安になってるんじゃねえよ」
「……あんたがそういうこと考えさせるんじゃないか。もう少し自重してくれれば、あたしだってこんなこと、」
「俺は死なねえし、てめえも死なせねえ。……死神だろうがなんだろうが、俺はてめえを誰かに渡す気はさらさらねえからな。たとえ一瞬だろうが、てめえを手放す気はねえから――生まれ変わりも何もクソくらえだ」
「……っ、」
細い身体にぎゅっと力が入って抱き付く腕に力がこもって、痛いほどに強く切なく締め上げられて。甘い感触に脳天が熱くて、脳裏から言葉がすべてが逃げていく。
「生も死も関係ねえ。――俺はてめえを離さねえ」
爪さえ立ててしがみ付いてくる彼女を手放す気がないから、死神だって斬り殺す。死ぬ気もないし死なせる気もない。……絶対に。

彼を縛る絶対に壊すことのできない枷が。深く澄んだ紫の瞳が。彼の心を雁字搦めにする、逃げようと思う心すら絡め取るそれが。
泣き笑いの形に歪む。
「……ばか」
いつもの罵声はひたすらに甘くて。アルベルは喉の奥で低く笑うと。その唇に噛み付いた。
死がどんなに身近でも、死ぬ気はない。どれだけ死を振り撒いても、死を黙って受け入れる気はない。わがままだ自分本意だと、罵りたければ罵ればいい。
何を言われようと。――この枷は、手放さない。

呆れたように細くなった紫、首に回った腕に力が入って。甘い疼きを背中に刻んだ。

―― End ――
2004/10/30UP
朝には紅顔ありて夕べには白骨になる / 創作さんに15のお題_so3アルベル×ネル_
OFP
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輪回 [朝には紅顔ありて夕べには白骨になる]
[最終修正 - 2024/06/14-15:22]