そのままでいてほしい、変わってほしくない、と。
切なくなるくらい、心がささやいた。
アーリグリフに正体不明のキカイが落ちてきたとの報告を受けて、それを作るだけの技術力があれば、この八方手詰まりの戦況を打破できると分かって。技術者の愚痴にそうと知って、だから陛下を説得して。
そして忍び込んだアーリグリフの地下牢、囚われていたのは――思っていたのとはだいぶ違った、男二人だった。
片方は飄々と食えない、年齢不詳の筋肉男。きっと牢から逃がしたならどうとでも生き延びられる、いやたとえ捕らわれたままでもおとなしく死ぬことはない、そう思わせるだけの何かを持った男で。
もう片方は……逆に目を離したならどうなってしまうものかやけに不安を煽る、本人はそうと自覚していないだけタチの悪い……そんな青年だった。
そしてネルのそんな第一印象は、たぶん正解だったのだと思う。
多少剣を扱うことのできるらしいとはいえ――牢から逃げる最中、戦闘後。きっと怯えにわなないている背中に、ふとそんなことを思った。
「……あんた、今までどうやって生きてきたんだい?」
ぽつり、つぶやいたのは決して揶揄からではなくて。詮索は後回しと決めていて、だから深追いするつもりもない、単なる疑問から。けれどどうやら――初対面時のあのとげとげしい上段からの言い方がいまだに引っかかっているのだろう、いかにもすねた碧が、ふい、とそっぽを向く。
「そんなの、どうだって良いじゃないですか」
――別に、からかうつもりも揚げ足を取るつもりもないのに。
ふっと息を吐けばそれさえ癇に障ったのだろう、見なくても分かる、きっとむっと眉を寄せて。けれどネルには言えないことを山ほど抱えているらしい青年は、結局何も言わないままさらにそっぽを向いた――そのまま歩くには、首が痛いだろうとネルの頭がそんなまったく関係ないことを思う。
「ケンカ腰になるんじゃないよ、単なる疑問なんだ。
剣の扱い方を知っていて、でもあんた、実際の「戦い」には慣れていない風じゃないか。――それがあたしには、少し不思議に思えただけさ」
「……慣れていなくて悪かったです。足手まといで。
でも、人殺しが日常になるなんて僕はいやだし、それが楽しいなんて思えるようになったら――ヘンタイじゃないですか」
「へ……!」
「間違っていますか?」
明後日の方を向いていた碧がいつの間にかまっすぐ彼女を見ていて、そこに映る自分の姿に、ただネルは首を振った。ガラス玉のような目に映る像に、いっそ逃げたくなった。
たぶん彼女の見立ては間違っていない――この青年は戦いに慣れていない。
慣れていないままにこんな事態にいきなり放り込まれて、たぶん今が一番心ささくれ立っている。
その無感動な目が、たぶんかつての自分を思い起こさせて。隠密という血塗られた道を自分で選んでそれこそこの手ではじめてヒトを殺して、それからしばらくのあのなんともいえない吐き気に苦しんだ自分を思い出させて。
そんな目をするな、なんて言えなかった。とても言う気になれなかった。
最初が白かったなんて思わないけれど。それでも何もなかった手が血にまみれて、何回手を洗っても痛くなるくらい洗っても落ちない血のにおいにのた打ち回ったかつての自分を、否定する気には到底なれなかった。
あのときの自分と同じ目をした青年に、だから何も言えなくて。
ヒトを、何かを殺す日常に慣れたなんて言うつもりはない。そんなこと今だって認めたくない。けれどそんな風に思うということは、つまりだいぶ「慣れた」のだと現実を突きつけられて、その事実に愕然とする。いくら血を流しても、理屈だけではない、嫌悪感いっぱいの頭のどこかが「仕方ない」と思ってそれに納得する自分に気付いて、そうなるように努力してきたというのにその事実が哀しくなる。
青年に、自分が重なって。なんだかやりきれない思いで心がいっぱいになって、
「頭では分かっていたし、今だって頭では割り切っているつもりです。殺らなきゃ殺られる、ここはそんな世界なんだって、分かっています。足手まといになりたくないし、誰かに守られたくなんてないし、せめて自分の身は自分で守りたいし、それが間違っているとは思わない」
「……そんなこと、言ってないよ……」
批難も揶揄もない。本当に単なる疑問で、そんな生き方が可能なのかどうかが不思議で、それ以上の意味はない。戦い方を知っていて、それでも血のにおいに怯える青年が、ネルの目には疑問に映っただけで。
きっとそんな生き方が許される世界があると、そう思うことに悔しさはない。
……ああ、思えば父が生きていて父に守られていたかつての自分はひょっとしたら同じ世界に生きていたのだと、まったく同じではないにしろ似たような世界に生きていたのだと、そう思えば決して理解できないわけではない。
そんな風に思えば、他の何ものでもなく純粋に憧れることさえできる。
――そして血のにおいに全身で嫌悪感を示す青年が、
今、血まみれの自分の手で青年に触れたくはない。
けれどたぶんこれから先、望むと望まざるとに関わらず青年の手は血で汚れる。たとえ白い手を保つことができたとしても、ネルの思惑通り王都に着いたなら、青年のその手に血を塗りたくることになる。
無理やりにもそうする。自国の民のために、たかが手を汚すだけだ、青年には協力してもらう。手を汚すだけで生命をあがなうことができるのだからと、懇願でも強要でも何でもして血まみれの道に引きずり込む。
もう決めた、他に道はない。早いも遅いも関係ない、青年の意思も潔癖な考えも全部踏みにじって、過去の自分さえ見ないふりをして、同じ血の海に彼を突き落とす。全身血まみれの自分と同じくらい、彼には汚れてもらう。
そう決めた、のに。
――そのままでいてほしい、変わってほしくない、と。
切なくなるくらい、心がささやいた。
まっすぐな碧が胸に痛くて、拒絶をあらわにした態度が心に痛くて、それでもどうしようもなく揺らぎながらも、ネルは自分を曲げられなくて。曲げるわけにはいかなくて。
――巻き込んですまない、の謝罪の言葉が、
薄っぺらくて何の価値もなくて、だから口から出てこない。まっすぐ目線を合わせることがつらくて、身を削がれるようで息ができなくて、――それでも、
それでも、
