本当は――いや、隠すまでもないことだけれど。
もう、本当にめろめろで。瀕死なんだ。
「ただい、」
――ま、
言い終わる前に、やわらかなものが抱きついてきて。正体は分かっていたけれど、とりあえずフェイトは硬直した。
「おかえり、フェイトおかえりー。ね、遊ぼう!」
「……あ」
抱きついてきた腕はそのままに、無邪気に彼を見上げる翡翠色。大きな目はどこまでもまっすぐで澄んでいて――そして虹彩が縦に長い、人外の瞳で。ほがらかに笑みを浮かべる口元も、ときどき牙がとがっているのが見える。とがっているといえば耳の先、もちろん人間のものではありえない。何より――ふと視線を落とせば黒ビロウドのこうもりの羽、ゆっくり宙を行き来しているのは黒い艶やかな尻尾。
抱きついてきた身体はやわらかくていいにおいがして、普通の、いや、とてもかわいいおんなのこのものなのに。その正体を知っている、彼女は――ソフィアは、
悪魔、で。
「ダメだろ。僕は神学校のしがない生徒、お前は立派な悪魔。大体ここは学校支給の下宿先で、いつ学校のやつらがやってくるか、」
「しがなくなんてないでしょう、特待生さん? それにもしも他の人と間違えたらって言いたいの?? やだフェイト、大丈夫だよ。
――わたしは、フェイトを間違えない」
くらくらする言葉を当然のように、いや、彼女にとってそれは間違いなく普通の、当然のことなのだろう。ともあれ当たり前のことのように言い切って。抱きついてきた身体はまるではなれないし、かわいい女の子に抱き付かれて、フェイトも嬉しくないはずがない。
ない、けれど。
「……大体、僕、今日宿題山ほど出されてるんだけど」
「いつもじゃない。フェイト、いつだって宿題がって言って逃げるでしょ。
人間って不便だね。フェイトが悪魔だったらいいのに。学校も勉強もないんだよ」
「便利とか不便とかじゃないだろ。……あのな、分かってるのか? 僕、そのうちお前を祓わなきゃならなるかもしれないんだぞ。
――それにだな、僕が人間じゃなかったら、今お前はこうして僕に抱きついていないだろう?」
「あ、それもそうだね」
そういう、立場だから。
生まれつきの問題で、個人にはどうしようもないから。
努力もまるで役に立たない、そんな次元の話だから。
――ああ、ソフィア。
――契約に縛られて、僕はお前の名前さえ気軽に呼ぶことができない。
――それがどんなに悔しいかやるせないか、
――お前はどのくらい、分かってるんだい……?
ある日、空から舞い降りてきた悪魔。どこまでも愛らしくて、気まぐれな行動はまさに小悪魔で。わがままを言っては彼を困らせるくせに、それなのに、でも。
でも、そんな悪魔のソフィアに神学校生徒のフェイトは惚れてしまった。
屈託のない笑顔で名乗られて、訊ねられたから思わず名乗って。たったそれだけで契約は発動して、こうしてソフィアに付きまとわれるようになったものの――フェイトはそれが嬉しい。
嬉しいけれど、悔しい。
現状、彼が彼女に何かを望めば、口に出して願ったなら、その時に彼女の名前を口にしてしまったなら。――その願いを、彼女が叶えてしまったなら。契約が微妙に発動している現時点、たったそれだけでフェイトの魂はソフィアに奪われる。奪ったフェイトの魂を持って、ソフィアはどこかへ帰ってしまう。
――悪魔は約束をたがえない。
あの日ソフィアの口からそう聞いた以上、それはきっとどこまでも真実なのだろう。
無邪気で、どこまでも純粋で。どこを取ってもまるで悪魔らしくないソフィアだけれど、だからひょっとしたらフェイトの魂を奪いたくないと思いはじめているかもしれないけれど。――怖くてそんなこと訊ねられないけれど、でもひょっとしたらそうなのかもしれないけれど。
けれどソフィア個人がどう望んだところで、契約は発動しているから。
フェイトに願われたなら、ソフィアは全力でそれを叶えてしまう。願いが叶ったら、フェイトの魂はソフィアの手に渡る。ソフィアがそれを望まなくても、フェイトの魂はフェイトのモノではなくなってしまう。
そうしてソフィアは、帰ってしまう。
ソフィアに魂を奪われる、それだけなら別にかまわないとフェイトは思う。神学校の生徒だという自分の立場からすれば、それは神に対するとんでもない裏切りだけれど、けれどそう思ってしまうのはどうしようもない。
思う、けれど。
魂を奪われた彼の身体は、果たしてどうなってしまうのだろう。魂は魂で、だからきっとそうなってしまえばこうしてソフィアに触れることができなくなる。魂のない身体はきっと抜け殻で、たとえ触れたところでそうと感じる心が、魂がなければ意味がない。
それに、目的を果たしたらソフィアはいなくなってしまうわけで、そうなると、
ソフィアに、関わっていたくて。
ソフィアに触れたくて。触れられたくて。
契約があるから気軽に彼女の名前を呼ぶことができない、それにはしぶしぶ目をつぶるにしても。制限に燃える、そんなねじれた心が彼の心にあるにしても。
――それは、現状ソフィアと触れ合うことができる今が前提だから。
「……なあ、」
「なあに、フェイト?」
「遊ぶってのがお前の望みなら、それ叶えたら僕の望み一つ叶えても、プラスマイナスゼロでトントンなんだよな?」
「うーん、と……そうだね。そうなる……そうかあ、そうなんだ」
小悪魔の、ソフィアの考えは読めない。純粋で人が良くて、本当は彼の質問にいちいち答えなくても良いのにこうして答えてしまう、この小悪魔の考えは人間のフェイトには読むことができない。彼の指摘にこうしてしゅんとしおれる、このかわいい女の子が本当は何を考えているかなんて、朴念仁のフェイトには分からない。
分からない、けれど。
本当は――いや、隠すまでもないことだけれど。
もう、本当にめろめろで。瀕死なんだ。
いちいち確認を取るまでもない、面倒くさい宿題なんてすぐにでも放り出したいし。彼女が喜んでくれるなら、どんな無茶な願いでもかなえてやりたい。それが時間つぶしのためだろうが他にどんな魂胆があるのだろうが、遊ぼうと誘われたなら二つ返事で引き受けたい。
本当は、本当は。
「……何して遊びたかったんだ?」
「え、……ええと、」
本当は、彼女の笑顔を独り占めしたいだけ。
――フェイトのそんなたった一つの望みは、どうやらまだソフィアに、
バレて、いない。
