どこか戸惑ったような、そんな気配が近付いてきて。彼は伏せていた顔を静かに上げた。
「アルベルちゃん……?」
夜着に毛布をはおって。銀髪に褐色の肌の少女が彼の前に立って、困った顔で笑いかけてくる。目で確認して何も言わずに、彼は立てた片膝に再び額を預けた。
さらり、風が抜けていく。
現在地、軍事国家アーリグリフ首都アーリグリフ。
年中雪に埋もれた南の大国は、その日、年に数えるほどの大吹雪に見舞われていて。やっとの思いで山越えしてきたパーティ一行のうち、――アルベルは一人勝手に王城に引きこもって、スフレがそんな彼にくっついてきていた。
「……寝てろ」
空き部屋は、彼の父が使っていたそこだけで。最初から分かっていたことに、しかしその部屋はやはりどうしても何となく居心地が悪くて。
スフレの寝息――感心なことに部屋に一つしかないベッドを彼は少女に譲っていた――を背中に聞きながら、こっそりと部屋を抜け出してきたというのに。その彼女は、けれど今アルベルの前になんだか縮こまって立っている。
「あの……アタシ、やっぱ迷惑だった……かな」
「別に」
伏せた顔から漏れた声は、きっと冷たかったのだろう。すぐそこの気配がざわざわ揺れる。
「無理言ってくっついてきたりせずに、……」
「違ぇよ――いいから、お前は寝ろ」
語尾が震えているのは気のせいだと思いたい、せめてこの凍て付く寒さのせいだと思いたい。
……少女が原因ではない。
彼の不機嫌も、こんな時間にこんなところで彼がぼーっとしているのも、
「ねえアルベルちゃ、」
「気にすんな」
尻すぼまりの声を打ち消すように、冷たく響くこの言葉も。
「お前のせいじゃ、ねえ。……とっとと寝ろ」
――それは決して、彼女が原因では、ない。
吹雪、ただでさえ冷たく凍て付いたこの国を、さらに冷たい檻に閉じ込めるもの。白く白く、どこまでも穢れなく白く、穢れすべてを覆い尽くして――生命すべてを覆い尽くしてしまう、モノ。
轟々と唸る音、白く叩きつけられる欠片。
白い闇に――閉じ込められる。
二階の廊下、窓の桟に腰を下ろしたアルベルの背に、轟、とひときわ大きな唸る音。かすかに跳ねた肩に気が付いて、スフレは眉を寄せた。
先ほど近付いてきた時に一度だけ彼女を見て以来、ずっと伏せられたままの顔。それは……多分気のせいだと思うものの、それはなんだか、ひどく怯えた雰囲気に包まれている。
「……アルベル、ちゃん……?」
「寝ろ」
無碍もない命令の声。その声の奥に、――なんだか怯えた響きがあるような。それは彼女の気のせいだろうか。
「アルベルちゃんは? 寝ない、の……??」
「気が向いたらな」
ぶっきらぼうでも、返事の声は上がる。だから自分の声は彼の耳にしっかり届いているのだと思う。思うけれど、彼女の声は――アルベルの心に届いていない。そんな、気がする。
「……っ」
スフレはきゅっと唇を噛んだ。
いつものぶっきらぼうで乱暴で、でもやさしい、……そんなアルベルではなくて。今目の前にいるのは、まるで手負いの獣のようで。それはとても哀しい。淋しい。
彼女を見てくれないアルベルに、ではなくて。
むき出しの傷を庇おうとして、けれどちっとも庇えていないその姿が。とても淋しい。
冷たい石の城の、冷え切った窓の桟に座って。寝ているでも起きているわけでもなく、ただじっとたたずんでいる姿。うつむいている姿。
それは一枚の絵のように、綺麗で様になっているけれど。
――とてもとてもとても、淋しくて。
そう思った瞬間、スフレの身体は勝手に動いていた。ダンスのステップで一気に距離を詰めて、ふわり、舞った毛布で自分の身体ごとアルベルを包み込む。
「……あ……?」
「――こんなとこでぼーっとしてたら、いくらアルベルちゃんでも風邪引いちゃうよ」
動きの鈍いアルベルに、どこか遠いスフレの手が届かない世界にいる彼に、怒ったような顔で笑いかける。
「決めた」
「……とっとと寝ろっつって、」
「アルベルちゃんが部屋に戻るまで、アタシもここにいる」
「っ」
息を呑んで、ばっと上がった憮然とした顔にかあっと怒りの色が広がった。先ほどの、綺麗で淋しい顔よりも。それは彼が「生きている」ことを示しているようで。
怒った顔は少し怖いけれど、スフレはそんな彼が嬉しい。
「アルベルちゃんが何を怖がっているかは知らないけど、アタシがここにいてあげる」
「――部屋に戻れ」
「やだ」
抱き付かない触れない、けれどとてもとても近い距離。自分が怯えていることにすら気付かない彼に、今のスフレが近付くことのできるぎりぎりの距離。毛布に包まれて、今の今までスフレがはおっていた毛布に包まれて、今だけは人肌にやさしい温もりの距離。
今にも爆発しそうだったアルベルの顔から、ゆっくりと静かに怒りが消えていく。
「……勝手にしろ」
「うん、アタシはアタシの好きにする。ここに、いるよ」
紅玉が再び伏せられて、森林緑がやわらかく笑う。
凍み込んでくる冷たさは、毛布一枚でずいぶん違うものなのだと。ほんのすぐそばに子供特有の高い体温を感じながら、アルベルはぼんやり瞬いた。
すぐそばで唸っていた風も、毛布一枚隔てればずいぶんやわらかいものに聞こえて、
笑みにもならない、ただ口の端を持ち上げる。
「アルベルちゃ、」
「……吹雪は、嫌いなんだよ」
もろい彼の、もろいところを敏感に感じ取った少女が。何かを言おうとするのを、さえぎるように声を上げる。
「こんな夜にはロクなことがねえ。寒いし、うるせえし……悪いことはことごとくこんな夜に起きやがる」
彼の母は、彼がものごころ付く前に家を出て行ったと、そう聞いたのも。そう聞かされたのが実は嘘で、本当は産後の肥立ちを悪くして夭逝したのだと知ったのも。懐いていた乳母が病死したのも、継承に失敗して父を亡くしたあの日も。
すべてすべて、彼にとって人生を大きく変えたすべてが、狙ったかのようなこんな大吹雪の夜に起きていて。
風の唸る音が死者の吠え声に聞こえる。音を吸い込む雪が、その冷たい痛みは心を縛る鋼の糸。音を吸い込んで視界をふさいで、白い闇に彼一人が取り残されるような気がして、
……それは、とてもとても怖くて、
あまりに怖くて、こんな夜は眠りに付くことすらできない。怯えている自分が情けなくて疎ましくて、だからわざわざ風の聞こえる場所にたたずむことがいつしか癖になっていて、
だから。
「……吹雪は、嫌いだ」
「でも、アタシはここにいるよ」
アルベルの言いたいことはきっと伝わらなかったのだろう、それでも褐色の肌の少女は静かに言い切った。馬鹿にするために目線を上げて、しかし――その目に浮かんだ真剣な色に、しかし彼は何も言えなかった。
「アタシは、今ここにいる。アルベルちゃんの前に、ちゃんと生きてここにいる。アルベルちゃんの昔のことは、ほとんど知らないけど。でも、今アタシがここにいるのは確かだよ。
アタシが、……」
一度言葉が切れて、そのタイミングに思わず彼が小さく息を止めて、次の瞬間、
「……っ、くちっ」
小さな身体がくしゃみに跳ねた。いきなりのそれに彼の毒気が一気に抜けた。
「――お前、なあ……」
がっくりと脱力する。
「だからとっとと部屋に戻れっつったんだろうが」
――先ほどの言葉の続きは、もうどうでもいいから。
「やだっ! アルベルちゃんが戻るまで、アタシもここにいる」
「……ああクソ、分かったよ……」
小さくうめいて立ち上がって、……ふと見えたそれにアルベルは怒る気もなくしてもう一度肩を落とした。細くて軽い身体を、ひょい、と落としたばかりのそこに担ぎ上げる。
「……靴くらいはいて来い、阿呆」
「だって、目が醒めたらアルベルちゃんがいなくてびっくりしたんだもんっ!」
「ああそうかよ……」
そのまま毛布ごとひとかたまりになって、彼の父の――彼にあてがわれた部屋に戻る。
眠気はない。
恐怖感も居心地の悪さも寂寥感も、すべてがない。
ただ、諦めにも呆れにも似た、仕方がないなといった気持ちで心がいっぱいになっていた。
――ただ。どことなくあたたかな気持ちで、心がいっぱいになっていた。
翌朝。
湯たんぽよろしくスフレの身体を抱いて、まるで兄妹のように仲良く――とても男女の色っぽさを感じさせない、そんな健全な漆黒団長と異国の少女の姿が侍女に発見されて。噂は瞬く間に、城どころか街中国中に広がって。
合流した二人をパーティリーダーが指まで指して大笑いしたとか。
便乗して笑った金髪大男が半殺しの目に遭ったとか。
――それはまた、別の話。
