そのまままた言葉が途切れて。雨のノイズだけが続いて。
まるでしおれた花のように、強くて優しい彼女の姿がフェイトにはそう見えて、
「ネルさ、」
「――フェイト」
フェイトの立ち位置からでは、表情がまるで見えない彼女が。まるで彼が声を上げることを待っていたように、その声をさえぎった。
「うぇ!? は、はいぃっ!!??」
驚きのあまり、よく分からない悲鳴が漏れた。自分でも変な声を。けれど笑うことなくネルの声が静かに、
「あんた、もう先に帰ってな。それこそ風邪引くよ」
「ネルさんは……」
「あたしは、もう少しここにいる。……大丈夫さ、体調管理ならちゃんとするから。誓ってもいい。
だから、あんたは気にせず先に行ってな」
さっぱりした声で静かに言われて。決して威圧的ではないけれど、逆らえない声で命令されて。頭が理解するより先に、彼女が促すとおりに彼の脚が反応して一歩を踏み出していて。――視界が動いたことに驚いてフェイトが我に返って。
彼は目を瞬いた。まつげにたまっていた水滴が、その動きにぱらぱらと散る。
「……ネルさん……?」
「いいから、行きな」
結局、一度も彼を見ることなく顔を見せることなく、静かに言われて、
フェイトは、なんだかぴんと来た。
「ネルさん、でも、」
「いいから」
振り向かないネル、うつむいたままの彼女。鮮やかな赤毛がこの雨でくすんだようにも見える。そしてどこか危うい彼女のまとった雰囲気が、フェイトの心に不安を呼ぶ。
「あたしは……、」
「ネルさん!!」
不安に駆られて鋭く叫んで。そのフェイトの声に、ネルがぎくりと震えて。
ここから去れと命令されたフェイトの脚が動いていた。
彼女の言葉を無視して、前へ。
そのまま、今も彼に振り返らないネルに近付いて、
――手をのばす。
雨に濡れたためか、それとも別の理由なのか。すっかり冷えた、血の気がない白い頬へ触れる直前。触れないけれど、その肌の冷たさを確かに感じた瞬間。
ネルがばっと顔をそむけて、フェイトから顔をそむけて。
意地でも顔を向けようとしない年上の彼女に、フェイトは、
「……泣いて、いるんですか……?」
手をのばしかけた中途半端な姿勢のまま、静かに声を上げる。
「ネルさん……」
「これはっ、……雨、だよ」
フェイトから顔を背けて、身体ごとそっぽを向こうと、そのまま去ろうとするネルを。フェイトの手が追う。そんな彼の隙をついて、猫のようなしなやかさで彼のすぐ脇をすり抜けようとする彼女の、細い手首をつかむ。
そうして捕らえて、逆の手が今度こそ彼女の冷たい頬を包む。
どこまでも丁寧にやさしく、その手がうつむいていた顔を上げさせて、
フェイトは困ったように微笑んだ。
「雨ですか?」
「……そ、うだ。よ」
隠密の彼女が、嘘を吐くことを職業とするはずの彼女が。いかにもうろたえて目を泳がせる。背を向けていても危うかった雰囲気を証明するように、ひどく心細い顔をしてそれでもうなずく。どもりながら、それでも肯定してみせる。
そんなネルの姿に、フェイトの心がざわめく。
――ああ、そんな痛々しい姿を見せないでください。
――僕にかまってほしくないなら、たとえ泣いていてもいつもの強い目でにらみつけてください。
――あなたにそんな姿を見せられたら、僕は、
小雨のそぼ降る中、年上のはずの彼女がとても幼く見えて。心細さに泣く、幼馴染の少女と重なって見えて。
――放っておけなくて。
フェイトは――それまで彼女の手首をつかまえていた反対の手で、両手で冷たい頬を包む。小作りな整った顔を、ささげるようにうやうやしく包みこむ。彼女の頬とはまるで正反対に、燃えるように熱い自分のてのひらで。
彼女を、少しでもあたためられたらいいと思う。
「ずいぶん冷えていますよ」
「……平気だよ」
やさしく頬を包まれて、それ以外はどこにも触れない彼から逃げようとしないネル。嗚咽にふるえないはっきりした声。けれどまっすぐ彼を射抜くことのない、うろたえて弱々しいまなざし。
強さと弱さをないまぜにした彼女は、そんな自分をきっと知らないのだと思う。
矛盾した、けれどやはりフェイトの目に美しい彼女自身を知らないのだと思う。
だからフェイトは、口元をほころばせてみせた。包み込む手と同じくらいやわらかく微笑んでみせた。
「……この町って、雨、あまり降らないんですよね?」
いきなりの、まるで関係のない話題に。虚を突かれたネルが思わず彼を見る。してやったりの笑みを、――浮かべたりしないで、フェイトはやわらかく微笑む。
「聞きました。ここで、この廃墟の教会で。僕がここに来る前、アーリグリフにいたアペリス教徒の人たちが殺されたとか。
それにあのとき、タイネーブさんやファリンさんが捕まったって、ネルさんが報告受けてたのもここでしょう?」
脈絡のない彼の言葉に、けれどどこか不穏な予感を抱かせる彼の言葉に。ネルの雰囲気がどんどんとげとげしたものになる。頬を伝う「雨」もそのままに、紫が鋭くなる。
「何が言いたいんだい」
「――思ったんです。
涙、みたいですね。泣きわめくわけじゃなくて、静かに声もなく泣く、女のひとの涙みたいだ。戦争に、哀しみに泣く涙みたいだ。
この雨は、そんな感じがする」
「……あてつけかい?」
「何のことですか?」
鋭いネルの声に、いけしゃあしゃあとフェイトが逆に訊ね返して。そんなフェイトにネルが鼻白んで小さく息を吸って、
「……この町って、雨、あまり降らないんですよね?」
気分を悪くしたネルが何かを言う前に、最初に戻った問い。かっと顔を染めたネルがいっそ憎々しくフェイトをにらむ。
「だから何が言いたいってのさっ!? ああ、そうだよ。このへんは確かにほとんど雨は降らない、ここ以外だってこの国には「雨」なんて滅多に降らない! だから作物が育たなくて、だからここの民たちは、」
――だからいつも飢えていて、だから豊かなシーハーツに目を付けた。去年の夏は特に雨が少なかったと聞く。だからこの国の民たちはなお飢えた。だから武力でシーハーツを、そこにある水を手にしようとして。――あの戦争が起きた。
攻めてきた国を。その事情を、民たちのことを。思いやるやさしいネルに。
フェイトが、今度こそ本当に心から微笑む。
「この町に雨が少ないなら。だったらこれって恵みの雨、ですよね?」
「……っ、」
「土砂降りが長く続いたら災害になりそうですけど。でもこんな雨だったら、そんなこともなさそうですし」
「……そう、だね」
ネルが泣いているなら、泣いていたなら。その理由は、説明されないフェイトに分かるものではないけれど。たとえばこの地で亡くなった同胞を思った涙なのか、たとえば貧しさに荒んだこの国の民を思った涙なのか、もっと別の理由があるのか、ないのか。分からないけれど。
それでもたとえ涙の理由が分からなくても、そんな彼にもきっとできることがある。きっとできることはある。
たとえば。
――誰かのためにネルが泣いていたのなら。
そんなことができるほど心やさしいネルは、フェイトには到底無理なことをどうということもないときっと言うだろう、そんな彼女は彼にとって、
「だったら。この雨は、だから女神の涙みたいじゃないですか」
フェイトが微笑みながらささやいた。ささやいて、頬を包み込んだ親指でネルの頬の「雨」をやさしく拭い取る。
突拍子もない言葉で煙に巻くのではなくて、理解できない内容を知ったかぶりで流すのではなくて。
たとえ理由が分からなくても、こうして涙をぬぐうくらいはできるから。
「だから。豊穣の女神の、……この雨はもしかしたら祝福みたいだって」
心から思うことを。
――伝えることはできるから。
彼にとっての「女神」はネルだなんて、さすがの彼もそこまでは言えないけれど。
できることを、できるだけ。したいと思ったことをすることなら、できるから。
「――そんなことを、思うんです」
熱を帯びたてのひらで冷たい頬をあたためること、
彼女の頬の「雨」をぬぐうこと、
思ったことを伝えること。
――たとえ無力でも、できることは……ある、から。
ぽつり、天から落ちてきたそれは彼女の肩に当たって砕けた。
ぽつり、次のそれは彼の髪の青にまぎれた。
ぽつ。ぽつ、ぽつ。小さな雨粒は少しずつ数と勢いを増していく。
土も空気も、ひとの心も。
すべてが乾いたこの地に、静かな音を立てて潤いが降りそそぐ。
まるでそれは、――彼に彼女に、この地に、この世界のすべてに。
まるで、祝福を与えるように。
