――今でも、その理由は分からない。
世界は不思議でできている。歳を経るごとに成長するごとに、知らないことが増えていく。
そんなことを、最近思う。
思ってしまう、なぜか。
かさり、何か葉ずれの音がして、ソフィアはふと振り向いた。足音はないと思ったのに、予想もしなかった近い距離に幼馴染の姿を発見した。
少し離れていた間に、なんだか彼女の知らない特技をいろいろ身につけていたフェイトは。
月光の青の下、青い髪をさらに青く見せていて。
「――月、きれいね」
少し、ほんの少し怖気付く心を押さえつけて、彼女は何気なく挨拶の言葉を投げる。気後れに気付かれないように、笑顔で。
そんなソフィアに返ってきたのは。
……怪訝そうに、躊躇の気配もなくのばされた手。大きなてのひら。
瞬いている間にほんのすぐ近くまで寄っていた彼が、彼の手が。彼女のほほに触れていた。
存在さえ知らなかったエリクールという青く小さな惑星の、そこに浮かんだ大陸の北部にあるシーハーツという国。そこの首都のシランドという街の王城に。ほんの数ヶ月前までは、想像さえ追いつかなかった歴史シミュレーションのようなそこに、
彼女は、彼女たち一行はその夜泊めてもらえることになった。
ものめずらしさと、まるでおとぎ話そのもののような壮麗な王城への憧れで、夜半ふらふらと散歩に出たソフィアは。
そうして、いつの間にか――庭だろうか? 広い、空を仰ぐことのできるところに出ていて。
「……フェイト……?」
大きな手、ごつごつした骨っぽい手。どれだけ剣を握ってきたのか、ソフィアの知らない、たぶん剣だこで硬い手。
その手が、ゆっくりほほをなでて。
「……どうしたの?」
凍りそうになった身体を無理やり動かして、ゆっくり瞬いてみる。じっと真剣に見つめてくる碧の目を、そのまま見上げる見据える。
――ほんの少し、離れていただけのはずなのに。
生まれたときからずっと一緒だった幼馴染は、ソフィアの知らない癖はもう何一つなかったはずの幼馴染の彼は、
少し離れていた間にソフィアの知らない山ほどを抱えていて。
「ふぇい、と……?」
以前なら思ったりしなかったのに、今は。
――ここにいるのが本物の、ソフィアの知る「フェイト」なのかどうか。判断できない自分に何より戸惑って。
ソフィアのほほを撫でるフェイトの手が止まらなくて。
彼女をじっと見下ろす碧の目は揺らがなくて。
「どうしたの、は僕の台詞だよ」
彼女が部屋を抜け出してから、彼がここに来てから、こうして彼女のほほに触れてから。
一体どのくらいの時間が経ったのか、月が少し傾いていた。
それだけ経ってから、ようやくフェイトがぼそっとつぶやいた。
「……え?」
触れたときと同じように、ぱっと大きな手が遠ざかる。守って遮っていたそれがなくなって、冷たい夜風が当然のようにソフィアのほほを撫でる。
そしてフェイトがその手を見せるように、誘うように格好を付けて手を差し出して、
風に冷えるほほがなんだか冷たくて、突っ張った感じがして、
「ソフィア、お前……なんで、泣いてた……?」
真面目で真剣で怪訝そうな顔がつぶやいて、
「何、で……って、別に何も、
……あれ?」
ほろり、ほほを伝う何か。そういえばいつか潤んでいた視界。
先ほどフェイトが拭い去ったはずのそれがまた浮かんで次々こぼれて、ほろほろほろ、止まらない涙にソフィア自身が驚く。知らないうちにこぼれていたそれに、誰よりも驚く。
どうやら人一倍感受性の強いソフィアは、昔から時々、ソフィア自身でも理由が分からないままに泣くことがあった。周囲に感化されて、あるいは自覚しない痛みや哀しみで、そのたびにぼろぼろ泣いていた。
成長するにつれてその頻度は減っていって、だからフェイトもソフィア本人もすっかり忘れていたけれど。
そういえば、そんなソフィアも、彼女の中に確かにいたから。今もきっと、居続けていたのかもしれない。久々にそれが出たのかもしれない。
「……いつものあれ、かよ?」
「うん……多分、そう」
ほろほろほろ、止まらない涙を手でぬぐいながらうなずく。ばたばたとポケットを服全部を叩いて探って、がっくり肩を落としたフェイトがまた彼女に手をのばす。
「フェイト……いいよ? 大丈夫、いつものことだし」
「知ってるけどさ」
「いろいろあって疲れてるけど、痛いとか哀しいとかはないから。大丈夫だから」
「分かってるけどさ」
そうして抱きすくめられて、彼の胸元にぐっと顔を押し付けられて、くぐもった声でソフィアが、
「服、濡れちゃうし」
「いいんだ」
「風強くなってきたから、フェイト寒いんじゃない??」
「これくらい、どってことないよ」
もがきながら言っても、まるで聞いてくれない頑固な声。やさしく包み込んでくれるくせに、まったくもってソフィアを分かってくれない朴念仁。
――ああ、フェイトだ。
こみ上げる息を素直に吐き出しながら、それがどこから出たのか気にしないようにしながら、
「月……見てたのに。見ていたいのに」
「ああ、うん……満月か」
フェイトの声が上を向いて。ソフィアの脳裏に浮かぶ、今まで見ていたもの。
広い広い空に浮かぶ、ソフィアのまるで知らない星座の海に浮かぶ、夜を従えた女神たち。二つの月が二つとも満月で、この街のこの庭を、草木の心地良く茂るここを青く白く照らしている。
暗く濃い色の布にとりどりの宝石たちがぶちまけられて、そこにころりと大粒の真珠が転がっているみたいで。誰のどんな宝石たちもきっとかなわない、澄んだ美しさの主役が、
主役たちが、そう、今もソフィアとフェイトを照らし出していて。
白い光がまぶしくて、見えなくてもまぶしくて。
泣きたいくらいに美しくて、そしてなんだか懐かしくて。
――はじめて訪れた星の、はじめての夜。はじめて見た月たちが何ごともなく世界を、ソフィアを、彼女の大好きな人を照らしてくれているのが嬉しい。
……ああ、涙の理由はこれだろうか。
止まらない涙をフェイトの胸元にこぼしながらソフィアは思う。
美しいそれに思った以上に心揺すぶられて、だからこんなにも涙がこぼれるのだろうか。心が惹かれて引き寄せられて、持っていかれる心のそのかわりに、だからこんなにも。
涙が、止まらないのだろうか。
――分からない、確証はない。本当にそうなのかもしれないし、本当は違うのかもしれない。
――自分の心なのに、自分の心だからこそ。
――見えなくて、分からなくて。
解けない疑問に頭をいっぱいにしながら、泣きながらソフィアは。
ぐい、そこにあった服を掴んで力いっぱい引っ張って。
大切に、大切に大切に彼女を包みこんでいたフェイトが何ごとかとぱっと顔を上げて。
同時に彼の腕がゆるんだから。
――なんで、だろう。
泣きながらソフィアは思う。
――どうして、わたしは。
ぽろぽろぽろ、いよいよ止まる気配のない涙を頬に感じながら。
不思議そうに彼女を見下ろすフェイトに、爪先立ちになって、
――今でも、その理由は分からない。
世界は不思議でできている。歳を経るごとに成長するごとに、知らないことが増えていく。
そんなことを、最近思う。
思ってしまう、なぜか。
そうしてまたひとつ彼女の中の不思議を増やしながら。
二つの月の下白いひとつの光の下。
――彼女は彼に、贈る。
