これは、特権。
誰にも譲れない、誰に渡すわけにもいかない。
自分だけに与えられた、許された。
大切な幸せな、至上の権利。
夢うつつに、名前を呼ばれた。
「……?」
ような気がして、フェイトは目を醒ました。
ぼんやりと見上げる天井は闇が濃い。周囲は暗く、白々と差し込む月の光だけが明るくて。夜明けはまだまだ先だと、だったらなぜ目が醒めたのだろうと、回転の鈍い頭がぎごちなく動き出す。
「……ネルさん?」
つぶやいた声が耳に届いた瞬間、くすり、笑みがこぼれた。笑いながら顔を傾けて、すぐそばにわだかまる気配、その持ち主の姿に。フェイトはふわりと笑う。
「……ネル」
さん、をはずして。静かに呼べば、彼女はぴくりと反応した。
けれどそれはすぐに吐息に変わって。その子供のような寝顔に、フェイトの心がほっかりと満たされる。
闘いが終わって、すべてが終わって。その闘いの中心にいたフェイトが「未開惑星」のエリクールに、何かと危険で不便なこの星に残ることを決めたのは。
――ネルがいたから。
その理由は、たった一言。それ以上でもそれ以下でもない。
それは「今の」フェイトが自分で導き出した最善の答えで。これ以上の正解はないと、いつだって思う。自分は正しい答えを選んだのだと、彼にはいつだって強い自信がある。
だって、そうでなければこんなに、
「…………」
フェイトはただ静かに彼女に身を寄せた。こつん、ぶつかったおでこにネルが少し身をすくませる。けれど穏やかな寝息に乱れはなくて、それが嬉しくて。くすくすとフェイトは笑う。
「愛してる」
起きている時に面と向かってささやいたなら、気恥ずかしさから瞬時に耳まで真っ赤になって烈火のように怒って、ぷんとそっぽを向いてしまう最愛の人に。これ以上ないほど気持ちを込めて、静かに静かにささやいた。
月光に青く染まるシーツに広がった、あのころよりも少し伸びた髪。健康的に陽に焼けた肌、そこに落ちるまつげの影。すんなり通った鼻梁、女らしいふっくりとしたラインを描く頬、寝息の漏れる艶やかな唇。どこまでも細くてしなやかに引き締まった、誰よりも強靭な肢体、そこに刻まれた施文はどこか誇らしげで。今はゆるくこぶしを作っている、武器を握り慣れた手にはタコがあって。――仲間のひとり、彼と同じ青髪の彼女と出会って以降、そのタコを密かに気にするようになったネルを、フェイトは知っている。
その一つ一つが。「今」のネルを形成する、その気高さ優しさ強さ甘さ苦い記憶凄惨な過去身体に刻まれた傷痕心に刻まれた残酷、そのカケラたちが一つ一つすべて。一つだって例外はない、すべてがすべていとおしくて。
「愛して、ます」
想いが強すぎて、他に言葉が浮かばない。心を込めてただささやいて、力の抜けた手を取ると甲に優しく口付ける。
「……ぃ、と……」
彼を夢から呼び醒ました、愛しい愛しい彼女の声。魅惑的な唇から自分の名前が漏れて。
ますます嬉しくなったフェイトは、その唇にそっと自分のそれを重ねた。
眠り姫を起こした王子のキスには及ばない、決して彼女を起こさないキスに。けれどフェイトは笑う。他の誰かだったらひょっとして無視するなとばかりに腹を立てたかもしれないけれど、今彼の元にいるのは他でもないネルだから。
だから心から嬉しくて、フェイトは密やかに笑う。
出逢った当初から、多分そのずっと前から。ネルは誰にも寝顔を見せなかった。ある意味では家族よりも近しいはずのパーティメンバーたちでさえ、その寝顔を見ることはできなかった。
誰よりも遅くまで起きていて、誰よりも早く目覚める。そういえばただベッドに横になったところさえ、滅多に見ることはなかった。同じ女部屋にいた幼馴染の少女も、見たことはないとふるふると首を振った。体調を崩せば静かに姿を消して、完全に回復させるまで誰の前にも現れなかった。弱っている姿を、誰にも見せなかった。
唯一彼女が意識を手放すとき、その姿を他の誰かに見せるときといえば。見極めを誤った、激戦の最中。体力なり精神力なりが尽きてどうしようもなくなったときだけで。
――それは、隠密のサガなんだよ。
いつか、何かの折に交わされた会話。苦笑によく似た、淋しい笑みが浮かんだネルの顔。鮮やかな赤毛を芝居がかった動作で振って、確かにネルはそう言った。
――あんたたちを信用していないわけじゃない。
――ただ、そういう風に訓練して、一度身に付けてしまったから。
――誰かが近くにいる状態では、無防備にならないように。
――たとえ家族だって、すぐそばにいるときは本当の眠りに就かないように。
――身体に叩き込んで、覚えてしまったから。
だから自分でももうどうしようもないのだ、と。なんだったらこんどからはタヌキ寝入りでもしようか、と。
不器用な冗談で、優しいネルは漂った悲痛な雰囲気を和ませようとしていた。
そう言っていた、彼女自身そうなのだと信じていたのだろう。
――けれど、今では。
彼女の頭の後ろに静かに腕を差し入れて、ぎりぎり触れるか触れないか、微妙な位置にまでにじり寄るフェイトを。少し迷ってから、そっとその腰に手を回したフェイトに。
ネルは気付かない。気付かないで昏々と眠っている。
家族にすら許さない距離を、誰にも見せないはずの寝顔を。
どこまでも無防備で、普段の凛々しさの代わりに浮かべた、見るがわの心をほころばせる愛らしい寝顔を。
――こうして今では、フェイトにだけ許してくれる。
それが嬉しくて、とても嬉しくて。ネルが本心安堵できるのは彼のそばだと、無意識に言ってくれることが嬉しくて。照れ屋な彼女が、口に出してはくれない「愛してる」を、けれどこうして態度で示してくれることが嬉しくて。
「愛してる」
もう一度心を込めてささやくと、もう一度触れるだけのキスを落とすと。
フェイトもゆっくりと目を閉じた。
腕の中の眠り姫を守るように。大切に大切に包み込みながら、ゆっくりと眠りに。
戻っていく。
――ネル、愛しているよ。本当に、心から。
――ネルがいるからから僕は、ここにいて良かったと。
――思うことが、できるんだ。
