「誰か」のために作る「何か」は、楽しい。
その「誰か」が好きな相手ならなおさら。
きっと浮かべてくれる笑顔を思えばなおさら。
それはとてもとても「楽しい」こと。
メインの食材はじめ、必要と思われる調味料は全部用意した。一番新鮮で一番美味そうなものを。店主の言い分では、ここ周辺でこれ以上の食材は手に入らないらしい。
ひとところにまとめて置いたそれを一つ一つ確かめる。
――よし。
包丁やら大鍋やらをはじめ、調理に使うだろう道具もすべてこの場にそろっている。特に包丁は何度か確認してみたけれど、下手な武器よりもよほど切れ味よく研ぎ澄まされていた。
さらに改めて包丁を確認して、鍋その他もついでのように確かめる。
――よし。
馬鹿みたいに何度も読み返したレシピは、もうほとんど完全に暗記してしまっている。暗記しているけれどなんとなく不安なので、すぐに確認できる場所にしっかり貼っておいた。自分でもそんなに難しい料理は選ばなかったので、それなのにレシピに不安を覚えることは少し切ないような気がする――けれどそれはこの際無視することにする。
脳裏に浮かぶそれと、貼ってある紙をもう一度照らし合わせる。
――よし。
邪魔になりそうな髪はまとめて、真新しいエプロンをしっかり身に着けて。流水で手を洗って、あまりの冷たさにかじかんだ手をわきわきさせながら清潔なタオルで水気をふき取る。
――よし。
そうして三回目の指差し確認をすべてすませたところで、
大きく息を吸った。息を止めて、ひとつうなずいた。
「やるか」
アーリグリフ首都アーリグリフ。
戦争が終わってなんとか落ち着いたころ、王が元敵国・シーハーツの大神官縁の娘を娶った。それに前後しておかしなモンスターがそこかしこをうろつきだして、やがて唐突にそれが収まったころに。行方不明になっていた――割にまあ、時々そこいらをうろついていたじゃないかと言う者もちらほらいるにはいたが――漆黒団長が、いきなり帰ってきた。と思ったら。
――青い髪の嫁を連れていた。
レシピの図解どおりに、元パーティメンバーの栗色の髪の娘が懇切丁寧に書きこんだ図解どおりに食材に刃を入れる。――刃を入れようとする。
が、困ったことにしょっぱなからつまずいた。
――左手の動きが鈍いせいで、思ったように材料が切れない。
――左手のせいだけではないかもしれないけれど、とりあえず思ったように材料が切れない。
――力任せに包丁を動かしていたら、なんだかまな板が削れてきたような気がする。
――困った。
ぎしり、奥歯を噛みしめたアルベルはしばらく悪戦苦闘して、しかしいきなり馬鹿らしくなって包丁から手を離した。変な風に人参に突き刺さった包丁がまっすぐ天井を指して、それからゆっくりと横向きに倒れる。倒れた拍子に少し跳ねて床にこぼれ落ちていきかけるのを、危なげなく掴み取る。
その瞬間の仏頂面のアルベルの脳裏には、マリアの嬉しそうな顔。
なんとか気を取り直して改めて包丁を握り直すと、とりあえず切ればいいのだろうと大きさを気にしないことに決めた。
だんだんだん、いかにも適当な音が響いて、ばらばらの大きさにこなごなになっていく野菜たち。
二人は、というか漆黒団長は、さすがに無断でそれなりに長期に渡って行方不明になっていたことで、一度は地位を剥奪されかけたものの。戦後のごたごたのため猫の手すら借りたい忙しさのアーリグリフ王の手で、再び団長の地位に招かれた。その際、もともとノックス家がカルサアに持っていた屋敷に加えてもうひとつ、首都アーリグリフに滞在用のための屋敷を構えることになった。
というか、アーリグリフ王に押し付けられた。
いらないと突っぱねる団長に、王はにやにやと笑いながらウォルター老と目配せをすると、
「祝いだ、ありがたく受け取っておくんだな」
「必要ねえ。……大体祝いも何も元の地位に就いただけだろうが」
「そっちではない。――ありていに言って結婚祝いだな。新居が他人の手で用意されたでは気に食わんか、旦那殿?」
「…………っ!!」
「ほっほっほ。まあ小さいとはいえそれなりの広さじゃ、手が回らんこともあるじゃろう。うちの使用人もいくらか入れておく。それ以外の細かいところは、嫁と相談して決めるがよい」
「…………てめえら……っ」
しかしこの二人がタッグを組むと、さすがの「歪のアルベル」も逆らいきれない。本人は不服だったものの、城に泊まろうとすると「家に帰れ」と追い出されるようになって、そのうちしぶしぶ諦めた。王の手はご丁寧に宿にまで及んでいて、怯えて泣きそうな顔の受付嬢に宿泊拒否された瞬間、アルベルも諦めざるをえなかった。
さすがに雪の降りしきる中の野宿は嫌だったらしい。というか、そんな無茶をして「嫁」に風邪を引かせるかもしれないことを嫌ったらしい。
想像以上にめろめろだ、などと王と養い親に思われていることに、果たしてアルベルは気付いているのかいないのか。――気付いていたなら気付いた瞬間暴れ出しそうだから。悪意には敏感な彼も、今回は珍しく気付いていないのかもしれない。
というかまあ、これは「悪意」ではないし。
切った野菜をばらばらと大鍋に放り込む。放り込んで火にかけようとして、そういえばレシピに、先に肉を炒めろと書いてあったことを思い出した。レシピを見てみたら、やっぱり肉を先に炒めなければならないらしい。
どうしようか迷ったあげく、完成品を盛り付けるつもりだった皿に、現在鍋に入っている野菜各種を取り出して。かわりに一口大に切った肉を放り込んで。
今度こそ火にかけた。
ら。
その肉はいきなり鍋にはり付きやがった。
「……っ」
なぜことごとく予想通りにいかないのか、アルベルは不機嫌になると力任せに鍋から肉をこそぎ落としはじめた。変に力を込めすぎたせいで今度は鍋を引掻いたか、どことなく鉄臭さが漂いはじめる。
住処が決まって、とりあえず持っていた荷物を置くことにしたその日。
はじめてその屋敷に二人が入って、ウォルター老おすすめの使用人、メイド頭の老婦人は心づくしの家庭料理で歓迎してくれて。きれいにそれを平らげて食後の茶なり酒なりを楽しんでいる時に。
「そういえば、私、アーリグリフ王に気に入られたみたいなのよね」
「……あ?」
それまで機嫌良く飲み食いしていたアルベルが、いきなり剣呑なまなざしになったことに気付いたか。やや早口になったマリアが、すぐに続けた。
「向こうも新婚だし、あの王さまはそういう人じゃないじゃない。
「気に入られた」っていうのはそういう意味で、じゃなくて。つまり……今日ね、帰りぎわ言われたの。「俺の秘書にならないか」って」
「……フン」
「給料は出すって言われたけど、まあお金の問題はこの際どうでも良いのよ」
早いピッチで杯を重ねるアルベルの手から、さりげなくグラスを取り上げると自分のティーカップに中身を注ぎ入れて。グラスをアルベルに返すと、スプーンでカップの中身をぐるぐるかき混ぜるマリア。
「お金の問題じゃないし、あなたの働きぶりにケチ付ける気はないわ。そもそも今の状態では文句を付けるだけのことを、「この国のあなた」のことを私は知らないし。
ただね、アルベル。私ね、」
両手で包んだカップの中身を一口。角度の関係で、アルベルにはマリアの表情が見えない。
「人間、どうがんばって向き不向きってあるじゃない」
見えない顔が、静かにささやく。言われた言葉の意味がアルベルにはよく分からない。
色が変わるまで肉を炒めて、先ほどよけておいた野菜を今度こそ鍋にぶち込んだ。――ぶち込んだところで、そういえば野菜と肉は別々に炒める、などとレシピに書いてあったことに気が付いた。
こわごわ鍋を覗き込んでみれば、もはやどうしようもない感じに混ざりきっている。
――拾い上げるのも面倒だし、やり直すにも材料がないし。
「……まあ、どうにかなるだろ」
どんどん理想から遠ざかっていく「それ」を改めて火にかける。
何を言ってやがる、とむくれたアルベルに。頭の回転が速すぎて時々彼には付いていくことができなくなる彼女は、くすりと息を漏らすと顔を隠していたカップを下ろした。苦笑のような微笑のような、困ったような淡い笑みで、
「あなたが私に何を望んでいるか、私があなたに何を望んでいるか。今まで一度だってはっきり話し合わなかったでしょう? だから。
――いくら考えても、私には普通の主婦って向かないと思うの」
確かにそこいらへんは漠然としたイメージのままで、家事に勤しんだり子供を抱えて所帯じみたマリアは――なんだか違う。想像しようとしても無理に想像しようとしても、どうにもしっくりこない。
「……別に誰もやれとは言ってねえだろうが。第一、ここなら適当に使用人もいる。お前が慣れないこと無理にしなくたって、あいつらはそういうののプロだ。任せておけば、」
「ええ、私もそう思った。だから。せっかく招かれたことだし、王の秘書に働きに出てもいいかしら」
鍋を火にかけたらじわじわとなんだか変な煙が上がった。香ばしいというよりも焦げ臭いにおいがゆるりと広がった。あわててそれをかき混ぜてみれば、先ほどの肉よろしくさっき入れた野菜どもまで鍋にくっついていた。
むしろ鍋の底は完璧に焦げていた。
――何がどうしてこうなるのか。
思わず鍋ごとゴミ扱い、吼竜破の餌食にでもしたくなる。わなわなとてのひらを鍋にかざして、眉間にしわを寄せて。アルベルは別の小鍋を手にすると、それで冷水をすくって問題の鍋に叩き込んだ。
激しく揺れる水面がやがておさまって、しばらくするとふつふつと煮立ってくる。
――どうせ失敗なら、何をどういじっても失敗なら。捨てるつもりでレシピをこなしてやろう。これ以上ひどくなりようもない、うまくいったなら拾いものだ。
やけになった頭が投槍に吐き捨てる。
「どう思う?」
訊ねてはいても、翠の目にはすでに決めたあとの硬い光。何も言わずにじっとその目をにらみ返せば、ふっとほころぶ淡紅色の唇。
「別に私は今の生活にも、あなたにも不満はないわよ。全部を承知で私の勝手であなたに付いて来て、予想以上に不快だった、もう耐えられない――そんな風に思ったことは、何もない。
でも……自分でも馬鹿みたいだって思うけど、」
それはきっと自虐の笑みだったのだろう。彼女にとっては。アルベルにとってのそれが、たとえ魅力的で魅惑的なぞくりと何かが背筋を這うものだったとしても。
「――何が言いたいんだてめえは」
「保障が、ね。ほしいの。……保障、もしくは保険」
その笑みを浮かべたまま、とても味気ないことを口にする。味気ない事務的なことなのに、彼女が言うと別の単語に聞こえる。
――プロポーズの言葉も、誓いの言葉も、証になる何かも、何もかもなくて。
――そんなもの、確かに望んだりしないけれど。
――でもせめて、今だけでいいから。思わず酔うような「何か」がほしい。
責めるでもねだるでもない、そんな声に聞こえる。アルベルの耳に、勝手に彼が捏造した声が聞こえる。
――永遠なんて望まないから、今を。
――この瞬間を。
――錯覚させてほしい。
