この広い世界の中で、たったひとつ。
ほしいと心底思った。
気が狂うほどほしいと思った。
何よりも、誰よりも――、
手に持っていたものを、なかばあきらめたような目で見やって。彼はひとつわざとらしく咳をしてから逆の手を目の前のドアに叩きつけた。
それなりにゆっくりと、二回。
そして返事を待たずにドアを開けると、特に気負いもなく中へ入り込む。
「……返事より先にドア開けるならノックの意味ないと思うけどね」
部屋の主、彼の目当ての人物はいつもの生真面目な顔で机に向かっていて。無断で入ってきた彼に顔を上げることなく声を荒げることなく、何かの報告書だろう、紙の束を真剣に見つめていた。
「そもそもあんたがノックすること自体ずいぶん珍しいか。どうしたんだい? 何か体調不良だとか」
「……お前自分の恋人を一体どういう目で見てんだよ」
「こ……っ!!」
顔を上げない彼女にやれやれと息を吐くと、それまで書類に集中していた紫の目が顔ごとがばっと彼に向く。
普段は涼やかなきれいな顔が、今は怒っているような唖然としているような表情でいっぱいになっていて。さらには鮮やかな赤毛に負けないほど真っ赤に染まっていて。常に冷静にあろうとする割に失敗しまくっている彼の恋人は、今日もとても愛らしくて。
「顔赤いぜ、ネル。お前こそ熱でもあるんじゃねえのか?」
「そ、っ、そんなわけ、ないよないに決まってるよこのばかっ! ばかクリフ!!」
愛らしくていとおしくて――その割にからかってしまうのは、まあ彼が長年培ってしまった悪癖だろう。最近時々ほんのかすかに反省するものの、まるで治る気配がない。というか、実はあまり治す気がない。
ともあれ。
陸に上げられた魚のように口をぱくぱくさせてからなんとかうめいて、赤い顔にさらに血を上らせて。多分文句を続けようとする愛しい人に、彼は右手に下げていたものをばさりと手渡した。
華やかな芳香をふりまく、彼女のしなやかな両手でやっと抱えられるほどの量を誇るそれ。
毒気を抜かれたのか、赤い顔のままきょとんと瞬いた彼女は、やがてじわじわと苦笑を浮かべる。
「……本当に、どうしたんだい? 今回の「おみやげ」は、ずいぶん乙女ちっくじゃないか」
「いやー……ちっと、このあと乙女ちっくなイベント控えてるからなー」
「は?」
両手いっぱいのバラの花束を抱えた彼女がこくんと首をかしげて、その愛らしさにくらくらしながら。年下の恋人にめろめろの自覚がある彼は、深い海の底にも似た鮮やかな目を細くした。
「――今帰ったぜ、ネル」
「ああ……うん。お帰り、クリフ」
彼女が抱えた花をつぶさないように、しかし花ごと彼女をしっかりと抱きしめれば。いつものとおり、いつまで経っても慣れないように戸惑ったように。
それでもネルは、おとなしく抱擁に応えてくれる。
それが、心底嬉しくて。幸せで。
闘いはそれなりに昔のことになって、以前の生活に戻った者は事後処理も落ち着いて、新しい道を歩む者もそれなりにうまくやっていた。
前者はたとえばネル。シーハーツの重臣として国内最高位の隠密として、変わらず大陸中あちこち忙しく動き回っては国のために尽くしていて。後者はたとえばクリフ。墜落した上ばらばらにされてしまったイーグルに変わって新しい小型艦を手に入れたので、けっこう好き勝手に広大な宇宙を飛び回っていて。
そうして接点をまるでなくしたはずの二人は。
けれど定期的にクリフがエリクールに通って、それなりの仲を保っていた。
「……まったく、こんな大量の花どうしろってんだい」
「バラのジャムとか美味いらしいぜ?」
「あいにくレシピを知らないね」
ひとひとりの腕いっぱいの花束が、ひとつの花瓶に収まるはずもない。城中の花瓶をかき集めてきたのではと思わず目を瞬くほど、部屋をたくさんの花瓶および花でうめたネルが。
やっと一息ついたと部屋の真ん中で腰に手を当てて大きく肩をすくめている。
そんな彼女を尻目に彼女の寝台で主にことわりもなくゆっくりくつろいでいたクリフは、まるでいたずらが成功した子供のような笑顔でそんな彼女を見ていた。
「……あんたね、」
「花を贈られて気分の悪い女はいないって聞いたんだけどなあ」
「いや……そりゃ嬉しいけど。両手いっぱいのバラの花なんて、これから先一生お目にかからないと思うし」
「お、なんだ気に入ったのか? 何ならまた持ってくるか??」
「……ほんとにどうしたのさ? 今日のあんた、やっぱりなんかおかしいよ、クリフ」
くるりと振り返り、呆れを通り越して本気で心配顔を浮かべるネルに。クリフはわざとらしい傷付いた表情を作ると、むくりと寝台から身を起こした。そのままちょいちょいと指で招けば、やはり心配顔のネルが素直にやってくる。
「熱でもあるのかい? 変なものを食べたとか。
あんたいくらひとより頑丈だからって、自分のこと気にしなさすぎるよ」
「そうじゃねえよ」
しげしげと覗き込んでくる彼女に目線を合わせると、クリフは傷付いた表情を一変、くるりと手首をひねってみせた。何も持っていなかった大きな手に、手品のように現れた一輪のバラ。
「あのな、ネル」
「……クリフ?」
造花でも、染め上げたわけでもない、みずみずしくて色鮮やかな。
先ほどの大量のバラからはすべて取られていたトゲが、このバラには鋭く残っている。トゲ一本ひとが手を加えることを許さない、「気品」めいたものを。このバラはほしいままにしている。
「あのな……、」
「どうしたんだい?」
彼女の手を傷付けないように、細心の注意を払ってそれを差し出せば。少し戸惑ったものの、ネルはそれを受け取った。
彼女の鮮やかな赤毛に対比するような深い深い青が、
――気品ある青いバラが、彼女の手に誇らしく咲く。
「不可能」を手にした美女が、ただ静かに彼を見つめる。
「――あのな、」
クリフが小さく息を吸って、ひゅぅ、変な音が立つ。
それなりに仲は進展して、けれど決定的な台詞はクリフもネルもひとことも口にしなくて。
ある日、唐突に彼を訪ねてきた行方不知のはずの養女は、それを知ると細い柳眉を逆立てた。
「なんでネルに言ってあげないのよ!?」
「言うって、何をだ?」
「…………クリフ」
本気で分からないにしても、分からないフリをしてるにしても。どちらにしろこれ以上は本気で死を招くと瞬時に悟ったクリフは、ただ苦笑いを浮かべる。
「今さら、だろ。それに。オレにあの星は狭すぎるし、ネルにこっちの生活が合うとも思えねえ」
「そんなのいいわけじゃない」
少し見ない間に、どうやらさらに辛辣になった養女がばっさり斬り捨てた。薄くてよく切れる刃物のような、絶対零度の氷でできた剣のような、そんな目で彼をじっと見つめる。
「やることやってるくせに、責任から逃げるような真似するんじゃないわよ。自分勝手なワガママにネルを巻き込むんじゃないわよ。
彼女はね、――自分からは絶対に言わないんだから」
居心地の悪さにひくりと頬を引きつらせたクリフに、びしり、突き付けられる細い指。
「今すぐエリクールに行きなさい」
「いや、マリア……あのな、」
「これからのことなんて、その時考えればいいのよ。それってクリフの十八番よね。
大体。ずっとずっと考えてるくせに、うじうじと悩んでるなんてらしくないわ」
――そうやっていつまで経ってもふらふらしてるから、こっちがやきもきするのよ。ふられるならいっそすっぱりふられてきなさい。
怒ったように命じると、養女はあっさり身を翻した。あわてたクリフが名前を呼んでもまるで無視して、最後に乗ってきた船に乗り込む瞬間、鋭い翠が再び彼を射る。
「――次は、エリクールで会いましょう」
――逃げたら許さないから。
……強い。
反論を許さない声を残して、あっさり養女は去って行って。あとにはただ、情けない顔をしたクリフだけ――もとい。金髪の美女に負けずに長い付き合いのヒゲ面の相棒の二人だけ。
ぎぎぎ、とクリフが油の切れたロボットのような動きで頭を抱えて。相棒はそんな彼をまるで気にしないように、笑いに肩を震わせたまま艦を発信した。
「あのな……、」
情けないことに、がちがちに緊張しながら。一回り以上歳の離れた恋人に、クリフは息を吸い込んだ。あれこれ考えて完璧に記憶したはずの台詞はすでにどこかに消え去って、真っ白な脳内にただひとつ残ったのは、曲解のしようのないまっすぐすぎるただひとこと。
視界が急激に狭くなって、耳元をばくばく流れる血の音がうるさくて、
かすかに微笑んだネルが、「不可能」の花言葉を持つ青いバラを手にした恋人が、首をかしげて彼の言葉を待っていて、
彼は、
「ネル、」
クリフが――ゆっくりと口を開いた。
