それはきっとささやかなもので、
それはきっとひそやかなもので、
それはけれど――いとおしいモノで。
今となってはもうなくてはならないもの。
あいつが何を考えているかなんて、結局は分かるものではないと思う。
◇◆◇◆◇◆
戦争が終わって闘いが終わって、あの時パーティを組んだ全員がそれぞれの居場所に戻って行った。彼女自身国に戻ってしまえば、今まで――「敵国」アーリグリフに「グリーテンのものと思われる」謎の飛行物体が墜落する前――と同じ、クリムゾンブレイドとしての任務に追われる毎日がやってくる。
違うことといえば。
うっかり情を通わせ合ってしまった男が、「元敵国」アーリグリフで軍団長として働いている――そんな事実だけ。そんな彼に逢いたいと思ってしまう、そんな自分の情けなさをことあるごとに思い知らされることだけ。
「……はあ」
指先につまんだそれを眺めて、ネルはため息を吐いた。それ――銀でできた古ぼけた、飾り気のない小さな、
――指環。
シーハーツの王城、彼女の私室で。書き途中の報告書を前に、ふと取り出したそれをにらむように見つめる。そんな彼女の頭の中をぐるぐると回っているのは、この前の闘いのときにパーティを組んだ、栗色の髪の夢見がちな少女の言葉。
曰く。――指環には、それをはめる指には意味があるのだとか。
――他の指はともかく、左手の薬指だけは愛する人のためにとっておいてくださいねっ!!
そんなことを言われたのは、戦闘中に何か効果のある指環を装備しようとしたときのことだったか。……あのときの少女の剣幕は怖かった。その指でなければ効果を発動しない指環なら捨てろとまで言っていた。
「でもさ……あいつがそれ知ってたとは思えないんだよねえ」
シーハーツには、エリクールには存在しない習慣。永く姿を変えない金属製の輪を身に付けさせることで、その相手の所有権を主張する習慣。心臓とつながっているという左手薬指にそれを身に付けることで――変わらぬ愛を示す習慣。
ネルさえ知らなかったよその国の習慣を、あの朴念仁が知っていたとは到底思えない。たとえ知ったところで、基本的には面倒臭がりのあの馬鹿がわざわざそれを狙ったなど、
「…………」
ペンを置いてちっぽけなそれをまじまじと見つめる。何の変哲もない銀の環は何も教えてくれない。
特別な意図があったのかも。そもそも特別な感情を――ネルが今あの男に抱いているのと同じ感情を、男もネルに抱いているのかということも。男は何も言わないから、言ってくれないからネルには分からない。
むしろ、知ってしまうのが。明確な答えを出されるのが怖い。
「…………はあ」
ネルはさらに息を吐くと、左手でそれを握りこんだ。そのまま、報告書を完成させなければと右手にペンを手に取る。
「やる。好きにしろ――いらんなら返せ」
ぞんざいに言い放って、こっちに来いと手招きした男。言われたものをてのひらに乗せたネルが瞬いて、瞬きながら男に近付いて、
「……指環?」
「他の何に見えるんだ阿呆」
年季の入った女ものの指輪。シンプルなデザインからすれば男が身に着けてもおかしくはないけれど、サイズを見れば女の指にしか入らない。
けれどいくら古ぼけていてもシンプルでも、それは大切に大切にされてきたことが一目で分かるものだから。
「あたしがもらって、いいのかい?」
「そう言っただろうが」
不安に思って訊けば、蒸し返すなと鋭くにらみつけてきた。その話はここで終わりだと、それ以上は言うなと。にらんだ目がずいと迫って、熱い息が唇に触れて、
「……単なる思い付きだったみたいに思えるんだよねえ」
いくら期待を込めて思い返してみても。きらきらした目であの少女が語ったような、「ろまんちっく」な状況ではなかった。いかにも何かのついでのように、たまたまその場にいたのがネルだったとでもいうように、
『やる。好きにしろ――いらんなら返せ』
けれど、好きにしろと言った割に、大切にしないといけないらしい指環。
男が最近何かの拍子にたまたま手に入れたものなら、どこにでもあるぴかぴかの既製品ならネルだって悩まなかった――と思う。ひょっとしたらやっぱり悩んだかもしれないけれど、それでもまあ、ここまで深読みはしなかったと思う。
くるりと覗き込んだ指環の内側、身につけたなら肌に直接触れる部分に、
「……イニシャル、か」
何かのデザインのように刻まれた紋様。指輪が作られた当初に刻まれたのだろう、一番古い部分はすっかり磨耗してしまって、プロではないネルには何が彫ってあったのか分からない。ともあれそこに続くように、少しずつ年代を新しくしていく文字列。
誰に確かめたわけでもないけれど、ネルは確信している。
――これは、「持ち主」のイニシャルだ。
「――代々伝わるような、大切なモノなんだろう? ねえ、あんたは何考えてあたしにこれくれたのさ?」
手につかなくて結局諦めた書類を前に。ネルは一人すねたようにごちる。
左手なら権力と権威、右手なら服従と信頼。左右五本ずつ、十本の指それぞれに意味があって。
――ねえ、あんたは一体あたしに何を求めているのさ?
――あたしはこの指環を、どの指にはめればいい??
悩んで悩んで悩んで。仕事さえなおざりになりかねないほど悩んで。
あの旅の疲れが出たのかと、そういう理由をでっち上げて心配してくれる親友の優しさが嬉しい。今までががんばりすぎですよと許してくれる陛下が嬉しい。
嬉しくてとても申しわけない。
たかが指環ひとつに。夜も眠れないほどモノも喉を通らないほど、真面目に悩んでいる自分が情けない。
「乙女」な自分は、自分らしくない。
けれど、それを捨てたいとは思わなかった。常に身近にあってほしい、身に着けていたい。
何しろ、それは。
……あの男がはじめてくれた、彼女にくれた贈りものだから。
それからしばらく経って。
ネルの悩みの種が、シーハーツまでアーリグリフ王の親書を届けに来た。どう扱えばいまだ悩み続けて、懐に大切にしまいこんでいた指環に触れて。
ネルは唇を一文字に、小さくうなずいた。
悔しいくらい、心のすべてを奪われてしまったから。なんてことのないたかが装飾品ひとつに激しく動揺する自分で、それは嫌になるくらい思い知ったから。
男の口から真意を聞こう。それが望んだものでもそうでなくても、たとえ嘘でも照れ隠しでも。
その言葉に従ってやろう。
親書を届け終わった男が、会議に出席した男が。彼女の部屋に押しかける時にでも。
「……それ、この前のアレか?」
「ああ、うん。そうだよ」
本当はどの指にはめればいいか分からなくて、一度としてためしもしなかったけれど。仕事がら装飾品を身に付けられなかったことにしておいて。
細い鎖に通してペンダントトップにしてみたそれ。服を剥ぎ取られた今、唯一彼女が身に付けているもの。
ネルが小さく笑いかければ、アルベルの表情が面白いくらい凍り付いた。
――さあ、あんたは一体何考えて、こんな爆弾あたしによこしたんだい?
その答えは――すぐに出る。
