それは、特権。
ごくありふれた、どこにでもある。
何よりも平穏で、だからこそ特別な。
大切な幸せな、至上の権利。

―― 吐息 [「ありがとう」をあなたに]

唇に触れた熱に、やがて額に触れる息に。
「…………」
どこまでもぼんやりと、ネルは目を醒ました。
物憂げに瞬きながら周囲の気配を探る。半分地で半分演技で目元をこすって、小さなあくびをしながら窓の方に目を向ける。
夜明けはまだ当分先のこと。この近辺に、彼女以外の気配はひとつだけ。
「……馬鹿だね」
気配で視覚で、周囲を探る自分には苦笑しか出てこない。いつまでも戦争を引きずって、いつまでも闘いを引きずって。過去に捕らわれた自分は、「平和」になった今となってはひどく滑稽で。
ネルは自嘲の笑みを浮かべた。
「ねえ、そうだろう? ……フェイト」
静かな声に、彼女を抱きしめる腕の持ち主はぴくりともしない。どこまでも穏やかな吐息が額をくすぐっている。くすぐったい幸福感に、自分の愚かしさがなんだか哀しい。
嬉しいけれど、とても淋しい。

◇◆◇◆◇◆

戦争が終わって闘いが終わって、結局彼女には最後まで本当の理解はできなかったものの、どうやらすべての区切りはついて。これでさよならだ、と。再会を約束してパーティを解散して、シーハーツに戻るネルに、
当然のようにくっついてきた青年。
――ネルがいるから。
なぜと理由を訊ねれば、帰ってくるのはいつだってその一言。心底嬉しそうに、たとえば尻尾が生えているならぶんぶんと大きく振っているに違いない姿に。「上機嫌」を絵に描いたような姿に、それ以上を訊ねるタイミングを見失った。
そうして今、彼はここにいる。年下の「彼氏」に振り回されるネルがここにいる。

◇◆◇◆◇◆

「…………ねえ」
ネルの小さなささやきに、フェイトは目を醒まさなかった。静かに身を寄せてその胸元、心臓あたりに耳をつければ、とくとくと落ち着いたリズムになんだか安心する。
「これで、良かったのかい?」
――当たり前じゃないですか。
訊ねたなら、間髪入れずに返ってくるだろう言葉を。耳の奥に聞いたネルは黙って目を伏せた。笑顔で言い切るだろう反応は想像できるものの、それがフェイトの本心かどうかネルには分からない。きゅっと唇を噛んで伏せていた目を上げて、胸を占める幸福と不安の元凶を、きっとにらみ付ける。
月の光に照らされた、豊かな海のような夏の空のような色の髪。いっそ悔しいほどなめらかな肌に落ちる、まつげの影が色濃い。本人は取りざたにされることを心底嫌がっている女顔には、出逢ったころよりも確かに精悍さが加わったと思う。成長期の名残のどこか儚い脆さが最近すっかり影を潜めて、細身の身体にはこの前の旅でだいぶ筋肉がついた。
「少年」ではなく「青年」でもなく、すっかり「男」めいてきた年下の彼は。けれど今、無邪気で無防備な寝顔をネルにさらしている。
彼の姿を、形作る一端を。こうして目にするたびにネルの心臓が騒ぐ。
「……本当に、良かったのかい?」
どきどきと痛いほどの心臓をぎゅっと押さえ付けて。
ささやけば、胸にあるとげがぐんと大きさを増した。幸せは確かにここにあるのに、罪悪感めいた気持ちが胸の奥に冷たい塊になっている。ネル個人はウソ偽りなく幸福だけれど、フェイトが無理しているかもしれない、そう考えれば素直に喜べない。
同時に、血塗られたこの手に幸福は似合わないと。心が糾弾して息が詰まる。
「……フェイト……」
――幸せなのに、それを与えてくれるフェイトに感謝したいのに。うじうじと悩む自分が嫌なのに、こんな気持ちを抱くなんてフェイトに申しわけないと思うのに。
なんだか冷たいてのひらを自分の下腹部に当てる。
――この子にも、すまないと思うのに。
「……あんたの本心が、見えないんだ。フェイト……」
ネルがささやく。フェイトは気付かない。
――ねえフェイト。その「幸福そのもの」な寝顔は、あんたの気持ちそのままだと信じても良いのかい……?

◇◆◇◆◇◆

この身体に宿った生命、「平和な世界」に一番最初に生まれるのだろう生命のひとつ。
それに気付いた瞬間、ネルの心を占めたのは「不安」だった。
生み育てる自信はある、迷った時に頼るべき人間に心当たりはある。自分に宿った生命は素直に嬉しいし、その生命の半分がどこから来たかを思えばさらに嬉しい。
けれど。
真っ先に報告したい、報告しなければならない相手の。反応が気になった。本心が気になった。
きっと無理をしてここに、ネルのそばに残った彼に。
さらに負担をかけるのではないか、そう思うことは。
不安、だった。

果たして。
それを告げたときのフェイトは、まず驚いて、そして満面の笑みを浮かべたけれど。嬉しさを全開にした笑顔で、表情の硬いネルをやさしく抱きしめてくれたけれど。
――お願いです、産んでくださいネルさん。
――……フェイト、
――僕の、……僕の大切な宝をもう一つ増やしてくれよ、ネル。
――だけどフェイト、
――ありがとう、ごめん、嬉しいんだ。嬉しくて舞い上がってるんだ。
言葉どおり浮かれ調子で、無邪気に喜んでくれたけれど。
……だけどフェイト。そう言ってくれる心は本当なのかい? 自分に無理をしないで、本当にそう思ってくれているのかい?? あたしは、
……あたしは一人で生きられる、一人でこの子を産み育てることは多分できる。
……わざわざ付き合ってくれなくても、どうにかなるんだよ?
……あんたの人生を。これ以上縛り付けなくても、どうにかなるんだよ?

◇◆◇◆◇◆

「あんたがもうちょっと、不器用だったなら」
自分勝手な言い草に、くすり、ネルの口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
――フェイトがもうちょっと不器用だったなら。
不満を表に出したなら、「産むな」「僕は関係ない」そんな最低の台詞を吐いてくれたなら。「用事を思い出し」てここから去って、二度と――ほとぼりが醒めるまでネルの近辺に現れないでくれたなら。
そうしたら、たとえ激怒したとしてもこうまで不安にならずにすんだかもしれない。
「嘘を、吐いてほしくないんだ。自覚のない嘘は、吐かないでほしいんだ」
――あんたが好きだから、今が幸せだから。だから不安になる。申しわけなくなる。
「あたしがあんたの「特別」なら、本当にどんなワガママでも叶えてくれるなら、」
身勝手極まりないこの願いを、どうか叶えてくれないか……?

面と向かっては絶対に言えない。信じていないわけではない、ただ不安なのだと。きっとどんなに説明しても完全な理解はしてもらえない。
「好きだよ……」
フェイトが寝ていて、届かないと分かっているから。
言葉を贈ると、間近な距離にさらに擦り寄った。
ぎゅっと抱きしめる腕に力が入って、いよいよ苦しいくらいきつく抱きしめられて。嬉しい気持ち、不安な気持ちがさらに大きくなる。

――フェイト、好きだよ。本当に、心から。
――だから、どうかわがままを許してほしい。
――身勝手に甘える心を、許してほしい。
――お願い、だから。

ネルは静かに目を閉じた。額に触れる穏やかな吐息が、腹部にまだ感じられない鼓動が。切なくて……けれどやはり愛しかった。

―― End ――
2005/05/15UP
「ありがとう」をあなたに / 結婚で5のお題_so3CP混合_
OFP
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吐息 [「ありがとう」をあなたに]
[最終修正 - 2024/06/14-15:35]