あなたのために何かをしたい。
いえ、あなたに返したい。
与えてくれたすべてを。
それ以上を、返したい。
調理台の上には食材各種。場所柄どうしても痩せているそれはくたびれているそれは、けれど今現在手に入る中で最高のもの。その横に調味料、中身はどれも半分以上しっかりある。足りなくなることはないだろう。
それらをざっと再確認する。確かに全部揃っている。
――よし。
よく研がれた包丁と大鍋小鍋、味見用の小皿。おたま。盛り付け用の深皿と、調理中に使いそうな皿何枚何種類か。その他道具各種。
確認がてら危なくない位置にまとめておいた。関係ないところで怪我をするのは馬鹿らしい。
――よし。
多分「この前」のとき、壁に貼り付けられたままのレシピ。
調理場の湿気にやられてだいぶごわごわのそれをもう一度読み直す。元から大して難しくないそれは、すでに完璧に頭に入っている。……だからといって、その通りにうまくいくとは思わないけれど。きっと多分どうにかなる。
――よし。
長い髪はまとめておいた。誰の趣味なのかやたらとファンシーなエプロンを、それしか見当たらなかったのでしぶしぶ身に付ける。手を洗ってすぐさまタオルで丹念に水気をふき取る。きっと凍りつく寸前の冷たすぎるそれに、びりびりと痺れた感覚が指先に残って。そのぼんやりした感触が少しだけ気持ち悪い。
――よし。
最後に部屋回りをぐるりと見渡して。ひとつうなずいた。
「全部あるわね」
ぐずぐずしている時間が惜しい。さっそく取りかかることにする。
アーリグリフ首都アーリグリフ。
先日、アルベルに無理言って食事を作ってもらった。でき上がったものは、お世辞にも「美味しい」とは言えない不思議な物体だったけれど。他でもない自分のためだけに作ってもらった、というのは純粋に嬉しくて。
だから、お返しをしたいと思った。
嬉しかったから。
幸せ、だったから。
食材を水洗いする。ここは何しろ酷寒の地、冷たい水にかじかんだ指先がずきずきと痛くなって、こんなことでしもやけでも作ったら笑いものね、などとマリアは思う。
そう思いながら材料全部を洗い終わって、皮をむこうと適当なジャガイモを手にした。皮むき専用の便利な道具は存在しないので、仕方なく時間を大量に費やしながらゆっくりとむいていく。これ以上ないほど真剣なのに、むいた皮に残った身の厚さが哀しい。慣れていないから仕方ないと自分をなぐさめる。なぐさめながら次に手を伸ばす。
一つ一つにひたすら時間がかかって、ようやくすべてむき終わったころには予定の時間をだいぶ過ぎていた。その事実にあわてて、今むいたばかりのジャガイモをまな板の上に乗せる。手を切らないように慎重に包丁の刃を下ろす。
――恐々とした手付きは、まるで何かの実験のようだと以前言われたことがある。
――それは当然かもしれない。きっとハタから見ていたなら、マリアだってそう思う。
材料ごとに、なるべく大きさを均一に。人参などのかたいものは少し小さめに。
調理をしているとはとても思えないぎごちない音を立てながら、真面目に真剣に。
その割に結局いくつか手に切り傷を作ってしまったのは――まあ。やっぱり慣れの問題だと、そういうことにしておく。
あの日、「創造主」を倒したあの日。
この「能力」を持つ自分は追われる身だからと、クォークのリーダーを、ディプロを降りることに決めた。渋るメンバーを引き止めるメンバーを説き伏せて、後任を決めてできる限りの事務処理をこなして。忙しく引き継ぎ作業を消化しながら、ではこれからどうしようと。
そう考えたとき、マリアの中に答えは一つしか見当たらなかった。
すっかり「家」だったディプロ、いつの間にか「家族」だったクルーたち。彼らに願った最後のワガママは、エリクール二号星にマリアを降ろしてもらうこと。そうして降り立ったエリクールで、彼らとの別れを惜しむ間もなく探したのは――たった一人の姿。
なんて、薄情だと。自分でも思う。
けれどどうしようもなかった。他にどうしようなんて、いくら考えても浮かんでこなかった。もしもそれがダメだったときはと、次善の策を考えることさえできなかった。考えることが、何も考えることができなくて。そうして真っ先に向かったのは、「彼」が戻ったはずの国、その国の首都。
実際に「彼」に、アルベルに再会したのがどこだったのか、今でもマリアは思い出せない。そのあたりの記憶は色々断片的で、ただ、やっとの思いで見つけたアルベルに駆け寄って、
――しばらく身を寄せても良いか。
具体的に何を言ったかは覚えていないけれど、要約するにそんなことを口走ったはずだ。
マリアのその言葉に、アルベルは何と答えただろう。
かまわない。好きにしろ。……そんな系統の返事だったはずだけれど。記憶力には自信があるのに、忘れてしまったことが悔しい。他のすべてを忘れても、せめてその言葉だけは、アルベルに関することだけは覚えていたかった。
ともあれ二人、まっすぐアーリグリフに向かって。王城に行ったアルベルが、やがてなんだか不機嫌そうに帰ってきて。
――住処が決まった。
あのタヌキども、とかなんとか。ぶつぶつ言っていたことだけは覚えている。
切った野菜を用意していた皿にすべてよけて、今度は肉のカタマリを手に取った。野菜に比べて格段に切りにくいそれを、なんとか細かくしようとがんばる。
どうにかすべて切り分けたころには、料理の完成予定時間すら過ぎていて。
――アルベルの帰宅時間は……確か今日は少し遅くなるとかなんとか。
時計を見て、焦りながら鍋を火にかける。熱した鍋に少量油を引いて強めの火で肉に火を通す。はねた油が手にかかって、小さな火傷をいくつも作りながら。
けれどやめようと、諦めようとだけは思わなかった。
勝手に押しかけたマリアを、けれど誰も追い返そうとしなかった。それがただ嬉しかった。嬉しかったけれど、誰かに寄りかかることがマリアの性格にできるはずもなくて。
アーリグリフ王の、自分の秘書にならないかという申し出は渡りに船だった。
屋敷を手配してくれた礼を言いに行った時だった。
忙しい時期の軍団長は用事で呼ばれて席を外して、同じく忙しい王がばさばさと書類をやっつけていて。そんな大切な時期にいきなり訪ねて、ただ出されたお茶を楽しむのはさすがに気が引けて。
特に何かをした覚えはないけれど、王の事務作業をほんの少し手伝った。言われたハンコをいくつか、ごちゃごちゃの引き出しから探して手渡して。執務室に積み上げられた紙の束を、本を資料を、崩れないようにと少し整理した。
――部外者が引っ掻き回すな、と。怒られても不思議はなかったのに。
「……俺の……補佐役というか秘書というか、そんな役目を頼まれてはくれんか?」
怒られるどころか、そんな風に訊かれた。
「私、この国のことを何も知らないわ。星の船の知識を求められても応えられないし、第一、あなたにもこの国にも、本心ではきっと忠誠なんて誓えない。だから、」
「なに、何も問題はない」
その顔に浮かんだのは、どこか人の悪い笑み。
「無理に忠誠など求めても無駄だろう。
そうだな……給金を支払うから、それに見合うだけの仕事をしてくれればいい。見れば分かるとおり、何しろ人手が足りぬのだ。俺は使えるものは使う主義だ、有能な人材をみすみす放っておく手はない。ぜひとも頼まれてほしい」
これはあくまでビジネスだ、と。ほしいのはマリアのその事務処理能力だと。
マリアの愛する人が仕える相手は、にやりと笑った。
彼女の二の腕に鳥肌が立った。
火が通っただろう肉を別の皿によけて、肉のあぶらが残る鍋に切った野菜を放り込む。火を弱くして、焦がさないように注意しながら炒める。
――レンジでもあったなら、もっと楽なのに。
どうしようもないことをぐちぐちと思う。
ディプロにいたなら。野菜の皮むきなど機械任せだし、機械でなくても皮むき専用の道具がある。肉や野菜に火を通すのはレンジを使えばすぐにすむ。焼き色をつけた方が香ばしいなら、一度レンジで火を通してから表面だけ焼けばいい。
パーティメンバーの誰もが、マリアは料理が下手だと思い込んでいたけれど。事実マリア自身も、ネルやソフィアの腕を見ていれば、得意だ、なんて逆立ちしても言えなかったけれど。
文明の利器を行使していいなら、最低限の自信はある。そしてたとえ文明の利器がなくても。時間さえかかっていいのなら、なんとか形にする程度のことはできる。
すべてをアルベルに頼らなくても。自活する道が開けたことが嬉しかった、アルベルの重荷にならなくてすむ、それがとても嬉しかった。
アルベルを、頼りないと思ったことはない。
ただ、マリアには。今まで組織のリーダーをしていたマリアには、その自負があるマリアには。たとえそれがアルベルでなかったとしても、生活のすべてを「誰か」に頼ることはできなかったから。
いや――むしろ「家事」はマリアの腕に余ることが。誰よりもマリア自身に分かっていたから。
家を守って家庭を守って、働きに出て帰ってきたアルベルを優しく出迎えることは。たとえばパーティメンバーの栗色の髪の少女なら、それはきっと得意だっただろう。鮮やかな赤毛の彼女や母のようであり姉のようでもあるいつでもにこやかな彼女にも、きっとしようと思えば可能だと思う。
けれど、マリアには。それはどうがんばっても無理だと思ったから。
せめて他の「何か」でアルベルに報いたかった。感謝の気持ちを、大きくなりすぎていっそマリアを振り回しているこの気持ちを、それを教えてくれたアルベルに返したかった。
そう思って、一方で。自分を認めてもらいたかった、必要とされたかった。「誰か」ではなく「アルベル」に。
――ここにいてもいいのだと、言ってもらいたかった。
だから、働きに出ようと思った。アルベルと同じように働きに出て、彼と同じように稼ぎを得て。対等でありたいと。ただそれだけだった。
野菜に火が通ったところで肉を鍋に戻す。レシピよりも少し多く水を入れて、こっそりディプロから持ってきた固形のチキンブイヨンを入れる。――本当は、これでさえも某条約に抵触していると知っていたけれど。
このくらいならかまわないと思う。
包み紙を火にくべて、証拠隠滅を図って。ふつふつと煮立ってきた鍋、浮かんできたアクを丁寧になんども取り除いて。
愛する人に、美味しいシチューを食べてもらいたい。
ただ純粋に、そう思う。
