あなたのために何ができますか。
ちっぽけな私に何ができますか。
教えを請うこともできないどうしようもなく愚かな私は。
だからただ、もがくしかないのです。
働きに出たいと、マリアがそう告げたとき。アルベルは見るからに一気に不機嫌になった。たぶん、「男」として頼りないと、そう言ったように聞こえたのだろう。
――そんなことはないのに。
今も、抱えきれない多くを与えてくれて。嬉しくて幸せで、だからそれに値するものを返したくて。返そうにも返せない自分が悔しくて淋しくて不安で、だから見つけた「その方法」にみっともなくしがみついているだけなのに。
「別に私は今の生活にも、あなたにも不満はないわよ。全部を承知で私の勝手であなたに付いて来て、予想以上に不快だった、もう耐えられない――そんな風に思ったことは、一度だってないわ。
でも……自分でも馬鹿みたいだって思うけど、」
――そう、馬鹿だ。そのつもりがなくても、きっとこれはアルベルを疑っていることになるのに。そう分かってもそう思っても、思いとどまることができない自分は馬鹿だ。
すぐそばの真紅が、不快そうに細くなる。マリアの胸がずきんと痛む。
「――何が言いたいんだてめえは」
「保障が、ね。ほしいの。……保障、もしくは保険」
――嘘を吐くな。
――ワガママな、勝手な自分を偽るな。
――満たされる心に優しくされることに慣れていないから。ありもしない裏を探ってしまうだけだ。
――粗野で乱暴で、でも優しい人を。自分にはもったいないほどの人を。そんな卑怯な言い回しで自分に縛り付けたりするな。
泣きたくなるほど厳しく自身を諌める言葉は、事実だからこそどこまでも痛い。
ただ機械的にアクをすくっていくうちに、ようやく少し落ち着いた。そんな大鍋にフタをして火を小さくして、マリアは今度は小鍋を手に取る。
できるなら、こっちこそレンジに任せてしまいたい。
ふう、と息を吐いてから、室温で少し溶けたバターを鍋に入れた。とろ火でじっくり溶かしておいて、そこに小麦粉を少し入れる。少し入れてかき混ぜて、きれいに混ざったらまた少し。焦ってはいけない、けれどのんびりやっていたらバターが焦げる。忙しくて大変で、だから気付かなかった。
部屋に増えた気配に。壁に身をもたれかけさせて、忙しいマリアをただじっと見つめる人影に。
気付かなかった。
自分を「普通」と扱ってもらいたかった、「普通の恋」がしたかった。それが叶って、片想いをして両想いになって、それだけで幸せだったのに。
ディプロから降りた瞬間から、クォークのリーダーではなくなった瞬間から。
自分はどうしようもなくワガママになったと思う。
想いが通い合っただけで満足していたのが、それだけでは足りなくなった。彼の姿を視界に入たくなった。彼のそばにいたくなった。彼の声を聞きたくなった。彼に見つめてほしくなった。触れたくなった、触れてほしくなった。息苦しいほどに、きつくきつく抱きしめてもらいたくなった。そして、
彼のすべてを――独占したくなった。
ひとつを得たならその次を。際限なく欲しがる自分が、とてもとても嫌で。
欲しがるほどに与えたくなる自分が。迷惑に決まっている気持ちを、重い重い心を。押し付けたがる自分が、――情けなくて。
けれどどんなに自分を嫌っても、気持ちにだけはブレーキがかかってくれなくて。
ひねくれていても乱暴でも、マリアが好きになった人は優しいから。本心がどうあれ、一生懸命なマリアを拒絶しない。拒絶しないでいてくれる。求めれば与えてくれる、欲しいものを与えてくれる。与えたいと思うものを、笑って受け入れてくれる。
偽善に決まっている心を、偽りではないと否定してくれる。
それは、とてもとてもとても嬉しい。
優しい気持ちを、けれど信じられないのは。
マリア自身が、自分の心を見失っているから。見失っていると自覚して、焦っていることを自覚して、もがいてもがいてもがいて、のばされた救いの手をけれど跳ね除けてしまうから。
――今まで一人で生きてきた。一人だと、そう思っていた。
だから甘え方が分からない、「強い自分」にしがみついている方が楽だ。そんな利己的な自分をしつこいくらいに自覚して、そのたびに自己嫌悪に陥って。
ディプロから降りた瞬間から、クォークのリーダーではなくなった瞬間から。
自分はどうしようもなくワガママになったと思う。
悔しいくらいに自覚するのに、どうすればいいのかが分からない。
全部の小麦粉を混ぜ終わった。
マリアは額に薄く浮いた汗を手の甲でぬぐう。入口そばの人影は、そんなマリアを見ている。人影に気付かないマリアは、汗をぬぐったことで額に小麦粉をくっつけたマリアは、それを気にしないで手元のそれをまじまじと覗きこんだ。
確認する――大丈夫、焦げていない。ダマも多分ない。
放っておいたら焦げるそれを、焦げないうちにと。なめらかな淡いクリーム色のそれに、先ほど入れた小麦粉の要領で今度は少しずつ牛乳を入れる。少しずつ少しずつ、のばしていく。
もったりしたそれが、白いきれいなペースト状に変わっていく。
ここで、味付けをしておいた方が良かっただろうか。ひょっとしてその前にコショウなどを振っておくべきだったか。覚えたはずのレシピが一部分欠けていて、確認しようと振り返って、
「あ」
人影――この屋敷の主人にしてマリアの愛する人、ここアーリグリフの軍団長を務めるアルベルに。やっとマリアは気が付いた。
時計を見れば、アルベルの帰宅予想時間はとっくに過ぎている。当初の予定なら、できあがった料理を前に彼の帰宅をわくわくしながら待つはずだったのに。
「……お、お帰りなさい」
「おう」
なんだか空々しい挨拶が、いたたまれない。
この前、マリアはアルベルにワガママを言った。
手料理を食べさせてくれと、そんなワガママを言った。
渋るアルベルを挑発する形で、なかば無理矢理取り付けた約束を。けれど彼は確かに叶えてくれた。たとえ出来上がったものは誰が見ても「失敗作」だったとしても。ワガママを叶えてくれた、「マリアのために」無理をしてくれた。いたずら心を、子供じみた迷惑な願いを。受け入れてもらったことが、
涙が出るくらい、嬉しかったから。
「……王? 近いうちに、一日休みを取りたいけど平気かしら」
「ん? ……まあ、そうだな……この前からお前が手伝ってくれるから、予定よりだいぶ進みが早い。二、三日なら……明日からでも別にかまわんが」
――なんだ旦那のために何かしてやろうというのか。できた嫁だな、あいつに無茶な仕事押し付けたくなってくるぞ。
勤めはじめてまだ数日なのに、マリアの「上司」はあっさり休暇をくれた。からかわれて思わず頬を染めるマリアに、必要なものがあるなら言えとまで言ってくれた。
「そこまではいらないわ。ありがとう」
こんなにいい職場環境は他にないと思う。本当に、そう思う。
他には誰もいないから、と。一国の王相手にタメ口さえ許される職場など、他には絶対にないと思う。
「ごめんなさい、夕食、もう少しかかるの。何か軽いものでも、」
「必要ねえ……待っててやるから。ここにいていいか?」
「え、ええ。見ていて面白いものでもないと思うけど」
「そんなことねえよ」
いつ帰ってきたのかまるで気付かなかった。戦いから遠ざかって、平和な生活に慣れて。だいぶ鈍っているのかもしれないと思いながら。謝るマリアにぞんざいに首を振って、アルベルは改めて壁にもたれかかった。
早くしろ、とたとえ促されなくても、どうやら彼が空腹だということは何となく分かったから。
マリアはあわてて鍋に戻る。早く早く、完成させよう。食べてもらおう。
鍋は。多分、十分に煮えているのだと思う。アクもなく、それなりにきれいに透き通っているし。ためしに人参をひとつ、拾って口にしてみてもしっかり火は通っている。
「……うん」
塩を入れて、今まで忘れていたコショウもここで入れて。しっかりかき混ぜて。
ためしに味見してみれば――まあ、アクセントがあまりない味ではあるものの、十分食べることのできるスープだった。
よし、とうなずいて先ほど作ったばかりのホワイトソースを流し入れる。もう一度しっかり混ぜ合わせる。
ここでさらに味見をすれば――、
「アルベル、もうすぐできるから」
「ああ」
火を少し強くして、それから煮立つ直前に落とした。ほわり、流れたにおいもまあ、
「……俺に対するあてつけか?」
「どうして?」
時間はかかったけれど。冒険中に食べたあの味には、栗色の髪の少女作のそれには多分敵わないけれど。
二人テーブルに着いて、マリア手作りの、それなりの自信のあるシチューをひとすくいして。アルベルは小さく息を吐いた。ぶつぶつと言われた言葉の意味が分からなくてマリアが首を傾げれば、何でもねえよため息を吐いて。
はくり。
「どうかしら」
「…………」
無言が痛い。何か失敗したかとあわてたマリアが味見をすれば、……肉のうまみもそれなりに溶け込んでいるし、なかなか美味しく……できていないか?
「あの、口に合わないなら無理しなくても」
「……ぃ」
「え?」
「うまい」
アルベルの声がマリアに届くころには。がつがつがつ、皿を抱える勢いでアルベルの手が動いて口が動いて。できたてほやほやの熱さに火傷でもしたか、少し涙目になって少しだけ動きが止まって、けれどそれもすぐに動き出して。
マリアはなんだか泣きたくなった。
――あなたに、少しでも返すことができたのでしょうか。
――感謝と、謝罪と。愛と。
おかわりもあるから、と言ったとたんにずいと差し出されたカラの深皿に、もぐもぐやりながらさっさとよこせと顎をしゃくる偉そうな態度に。そうしながらまだ口内の火傷が痛いのかほんの少し潤んだ目に。
どきどきした。
どきどきして、嬉しくて。
いそいそとおかわりを盛り付けながら、マリアの頬がほんのり染まる。口元が嬉しそうにゆるむ。
「……うまい」
「ありがとう。がんばったかいがあったわ」
――連邦も馬鹿ではない。あるいは他の勢力も。
――今はごたごたしているけれど、それが収まれば。きっとマリアの存在を突き止めて、現在の居所を探しはじめて、
――マリアがひとところに留まれば、きっといつか気付くはずだ。
――そうした時に、マリアが選ぶべきは。愛する人を、愛する人が暮らす国を、星を。巻き込みたくないと思えは選ぶ道は、
「マリア」
「うん?」
名前を呼ばれて顔を上げれば。無闇に偉そうな、けれどどこか優しい、マリアにはすっかり見慣れた――実のところマリア以外の人間は見たことのない笑みを浮かべたアルベルがいて。
「何も気にすんじゃねえ」
え、と目をまたたく。
「俺がお前を守ってやる。強いのもいいがな、たまには頼ってみろ。
……なあ、「奥さん」?」
「っ、……!! ば、ばかなこと言わないでっ! 私はあなたの手なんか借りなくても一人で、」
「別に命じちゃいねえよ。俺の勝手だ」
――だから、気にするなと。
そんな風に言われて。
どこまで分かっているのかまるで読めない表情でそう言われて。
マリアの頬にかあっと朱が昇った。どきどきどき、高鳴る鼓動を抑えようと胸元に手を当てれば、気付かないうちにアルベルはこちらがわに回りこんでいて、
「……ぁ、」
「気付け、阿呆」
額に触れた指がすぐに離れて、そこに粉が着いていて――きょとんと首をかしげたら苦笑された。ホワイトソースを作る時に着いたのか、と納得していると、不意に熱いものに包み込まれる。
――今日は何回驚けばいいのだろう。
目を瞬くマリアの耳元に、そっとささやかれた言葉。聞いた瞬間言葉が心に届いた瞬間。つん、と鼻の奥に感じた痛みにやけに涙もろい少女がいて。
ぽろり、頬を伝う涙を感じながら、マリアはうなずいた。
ぽろぽろ涙をこぼしながら何度もうなずいて、彼女を包み込む身体に力いっぱいしがみついた。
うまかったまた作ってくれ、の言葉にうなずいて。
じゃああなたも時々は作ってね、とささやき返して。
瞬時に渋った顔に。
――泣きながら、笑った。
――幸せにしてやるから。
――ずっとずっとそばにいろ。
……命令、するんじゃないわよ。
……嬉しくて、嬉しすぎて。泣けてくるじゃない。
