それなりに生きてきて、はじめて。
ほしいと心底感じた。
すべてを忘れてほしいと感じた。
何よりも、誰よりも――、

―― 吉期 [この広い世界で]

手に持っていたものを、少し目を細めて見やって。彼女はふわりと微笑んでから目線を上のほうに移動させた。
瞬きを、ひとつふたつ。
そしてもう一度にこりと笑えば、がばっと覆いかぶさってきた身体に苦しいほど強く抱きしめられる。
「……んな風に笑ってくれるなよ」
声の主、そして抱擁する腕の持ち主はいつもの不真面目な顔でどうやら苦笑していて。息苦しさに小さく苦笑した彼女に気付いた瞬間、あわてたように腕から力が抜けて、包み込むようなそれに変わる。
「一応なけなしの理性総動員してるんだぜ? そのドリョクをぶち壊す真似してほしくねえなあ」
「……どこの誰が何言ってんのさ」
「疑うならドリョクするのやめるけどな」
――実年齢のワリにやっぱり落ち着きがないじゃないか。
やれやれと息を吐けば、まるで身じろぎすらできなかった抱擁が緩んで、見上げた青い目が優しく陽気に笑っていた。
真面目な顔だってしようと思えばできるくせに、最近ネルを見る彼はいつだっていとおしむような幸せな表情に緩みきっていて。さらには惚れた贔屓目を差し引いたなら、それは不真面目で軽薄なだらけた情けない笑みで。
それでもいつだって余裕たっぷりにしか見えない彼女の恋人は、今日だってとても格好良くて。
ネルはゆっくりと瞬いた。――口元が緩んでいることが自分でも分かる。
……うん。

「……さっきの話だけど。受けるよ。受けたいし、――嬉しい」
「そ、っ、そうか……? 別に今すぐ返事しなくてもいいんだぜ??」
自分だけに向いた笑みが格好よくていとおしくて――まるで夢のようだと、ぼうっと気の抜けた頭がそう思った。
息を吸い込んだ瞬間瞬きした瞬間、きっかけはなくても今すぐにでも。幸せな夢が消え去って冷たく厳しい現実に引きずり出されるのではないかと、心のどこかは怯えていた。
ともあれ。
ネルの目にはなんだか珍しく、ほんの少しだけどもって上擦った声で。焦って応えるもんじゃねえだろうとあわてる愛しい人に、彼女は右手に持ったままだったものをその口元にすっと突きつけた。
華やかな芳香をふりまく、本来存在しないはずのそれ。
意表を突かれたのか、どこか困った顔のまま一度瞬いた彼は、やがてじわじわと苦笑を浮かべる。
「……本当に、いいんだな? さすがのオレもこれが冗談てのは笑えねえぜ」
「あんた……どうせならもっと喜んだならどうなんだい」
「そだな」
口封じをするような青いバラをどかして彼の苦笑が野太い笑みに変わって、その凛々しさにくらくらしながら。年上の恋人にめろめろの彼女は、研磨したアメジストのような鮮やかな目を細くした。
「――あたしはあんたがいいんだよ、クリフ」
「ああ……そうだな。オレもお前が欲しい、ネル」
――これって現実だよね?
どこか不安がにじんだ声で彼女がつぶやけば。
――オレの一世一代のプロポーズを幻扱いするのかよ。
彼がわざとらしくむくれて。
殺しきれない嬉しさが温かな腕ににじみ出ていて、その太い檻に再び彼女は閉じ込められてしまう。「幸せ」を固めたような檻に閉じ込められて、逃げようという気が起きない。

◇◆◇◆◇◆

付かず離れず、気が向いたようにふらりと現れるクリフを。驚きまじりにただ迎えるだけの日々が続くと思っていた。自由気ままで奔放で、掴みどころのない彼は。誰かに縛られることを何より嫌っているのだと、そう思っていた。
そんな彼の負担になりたくなかったから、嫌われたくなかったから。だからこれで良いのだと、もう二度と逢えないはずが時々顔を出してくれるのだから十分ではないかと。
――今なら分かる、彼女は必死に自分を騙そうとしていて。騙せないと分かっていながら、それでも無理に騙したつもりになっていて。
いつか顔を見せなくなる日が来るだろう、漠然と思っていた。それもしかたがないと頭のどこかで諦めながら、心の底ではそれに怯えていた。
それがいやなら自分から動けばいいと、分かっていながら結局一歩も踏み出せなくて。居心地の良いぬるま湯のようなこの関係を壊すことは、彼女には怖くて怖くて。考えるほどに深みにはまって、もがくほどに昏いモノにとらわれて。
自力ではどうしようもなくて、助けを求めて手をのばしていた。暖かで力強い手を求めていた。
それが今、望んでいた場所に望んでいた以上の形で落ち着くことができて。
何もしなかった自分が心底情けないけれど。けれどそれ以上に――嬉しい。

◇◆◇◆◇◆

「……まあ、やるべきことだとか考えるべきことだとか、山ほどあるんだけどな」
「あたし、当分クリムゾンブレイド続けるよ?」
「わぁーってる。オレもまだ布石が終わってねえし」
部屋の各所に置かれて芳香を放っているバラたちを、自分が持ってきたくせにどこか微妙な顔でざっと眺めたクリフが。これから先を考えてだろう、なんだかやれやれと大きく息を吐いている。
げんなりしている彼に、青バラをぴこぴこさせながらネルがくすくすと笑う。
「……お前な、」
「だってらしくないじゃないか。困難が大きいほど、あんたは生き生きする人種だろう?」
「いや――そりゃそうなんだがな。
……そうだよな。どうにかなるし、してみせるさ。オレに任せとけ」
「そうだね、頼りにしてるから」
「おう」
くるりと振り返りながら。どこか情けない力ない笑みをいつもの惚れ惚れするような笑みへ、一気に変えてみせたクリフに。ネルはにっと笑い返すと、ちょいちょいと指で招いた。
近くなった整った顔、その頬に。ネルはやわらかく祝福を贈る。
「アペリスのご加護、ってやつか。
お前の祝福なら、きっと効果覿面だな。さんきゅ」
「どういたしまして」
子供っぽく無邪気に破願する彼に、ネルはさらに微笑んだ。言葉では、態度ではきっと示しきれないこの気持ちが、もどかしくて嬉しくていとおしくて。
「あのね、クリフ」
「……ん?」
包み込むようなやさしさと、大法螺さえ現実に変える力と気力を持つ最愛のひとに。偶然で彼女と出会って、当然のように彼女の心に居座って、必然のように彼女の心の中で陣地を広げていった彼に。
一度、はっきり伝えておきたかった言葉。
「あのね……、」
「どうした?」
これが夢だったらと、不意に思う。いきなり甘い夢が醒めたら哀しいと思う。けれど言葉が彼の心を縛るくらいなら、彼の自由を奪うくらいなら。夢幻のように消えてくれた方が良いとも思う。
思いながら、けれど言わずにはいられなくて。
どこか嬉しそうにいとおしいものを見つめるように、彼がただ静かに彼女を見つめる。
多分同じ目で、彼女も彼を見ている。
「――あのね、」
きゅっと手を握りなおして、ちくんと痛みが走った。バラのトゲが刺さったのかと理解して、その痛みを手がかりにどこかに薄れかけた意識をあわてて引き戻す。
「あのね……、」

彼女が伝えた言葉に、今日一番嬉しい顔をしたクリフがまたも抱きついてきて。容赦なく締め上げられて、ネルの口から本気の悲鳴が漏れて。
そうしたばたばたが、ややあってようやく落ち着いて。
「――とりあえずな、ネル」
「うん」
「今すぐでなくてもいいけどよ。……ちょっと長めの休み用意できねえか?」
「……うん?」
べたべたしたがるクリフに、そのころになってようやく恥ずかしさだとか気まずさだとかうっとおしさだとかが浮かんできて。そんなネルに気付いたのか気付かないのか、彼が満面の笑みを――けれどどこか照れを含んだ笑みを浮かべて、

「オレの実家に一度連れて行きてえんだ」
クリフがとんでもない一撃をくり出した。
「…………っ!?」
ネルの息が、ただの一瞬で完璧なまでに詰まった。

―― End ――
2005/06/09UP
この広い世界で / 結婚で5のお題_so3CP混合_
OFP
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吉期 [この広い世界で]
[最終修正 - 2024/06/14-15:36]