目の前に、すぐそこにいるあなたが。
本当にすぐそこにいるのか、不安で、ただとても不安で。
「……ああ、マリア。こんなところにいたんだ」
「フェイト……ひょっとして探してくれたのかしら?」
「うん。いや、別に今すぐどうにかって用はなかったんだけどさ」
キィ、きしんだ音を立てて入口のドアが開いて。少し行った先、左手。静謐なそこにたたずむ青髪の彼女に、フェイトはやわらかく笑いかけた。
アリアス――戦禍にさらされた、いまだ傷の癒えない村。
夜ともなれば、騒ぎ立てる酔っ払いさえいない。生活にその余裕がない。……フェイトもマリアもそんな姿しか知らない、そんな村。
「礼拝堂、か。マリアは、」
「ここで言うのもなんだけど、神は信じていないわね。文明文化その他にも、あまり興味はないわ。
……ただ、ここの雰囲気が好きなの。礼拝堂の、この雰囲気が」
フェイトの質問を先読みして、ふっとマリアが目を伏せた。質問を先読みされて、フェイトは苦笑する。苦笑したまま、そっと距離を詰めて、ふわりとマリアを抱きしめた。
「……何?」
「いや、なんでもないよ。ただ、……ただこうしたいだけ。ダメかな?」
星明りに月明かりに、照らし出された彼女が。フェイトの目にやけに儚く映ったから。そのまま影のように陽炎のようにふっと消えて、目の前からいなくなってしまいそうに見えたから。
きっと、この礼拝堂の雰囲気と一人たたずむ彼女のまなざしがそんな錯覚をおこさせたのだと思う。
こうして抱きしめれば、マリアには確かに体温があってちゃんと脈打っていて。ちゃんと生きている、そう感じることができるから。
ふっと笑って静かに目を伏せる彼女が。ただ、どこまでも大切で。
「……静かね」
「この村は、夜が早いからね」
何をするでもなく、間近い距離でささやきあって。礼拝堂の雰囲気が大声を出すことをはばからさせて。
ふっとフェイトが天井を仰いだ。つられてマリアも上を向いて、そこにあったのはすっかり汚れた、破れかけたステンドグラス。
「……僕はさ、」
「?」
ささやく声のトーンはそのまま、話だけは確かに変わったことを感じとった。マリアが少しだけ首をかしげれば、口元だけで笑ったフェイトは彼女の背に回した腕にほんの少し力を込める。
「僕も、クリフも。当然マリアだって。
……この村の「平和」なときを、知らないんだよな」
「――そうね。私が来たとき、フェイト、キミがここを訪れたときはすでに、この村はもう今の姿だった。アーリグリフとシーハーツが和平を結んでまだ間もないから、その上まだバンデーンが上空にいて「平和」とは言えないから。
復興していない姿しか、今のこの状態しか知りようがないわ」
フェイトが何を言いたいのか、だいぶ読めるようになったけれど。まだまだ会話の端ですべてを分かることは無理で、だから彼が何を言いたいのか分からない。
分からないなりに自分の考えをまじえて返せば、フェイトの口元の笑みが深くなる。
「このステンドグラスも、この汚れたのしか知らない」
「きれいに磨いてあれば、星明り月明かりでも神話の影が落ちたかしら」
フェイトが何を言いたいのかが分からない。分からないのに、口は勝手に言葉を紡ぐ。
彼の背に回した手に無意識に力がこもって、どこまでもやわらかく、それでもますますしっかりと抱きしめられて。
フェイトの心がなんだか遠くて、淋しい。
どれだけ間近い距離で抱きしめられても、なんだかひどく遠くて淋しい。
――ああ、そうか。
マリアはゆっくりと瞬いた。汚れたステンドグラスなどとうに見ていなくて、その目はただフェイトの、彼女には読みきれない碧だけを見つめている。
――先ほどフェイトが、どうやらマリアを探し回ったのは。
――この礼拝堂に彼女を見つけて、真っ先に抱きしめてきたのは。
――だから、かもしれない。
近くなったと思った距離は、けれど錯覚かもしれなくて。実際近くなったとして、けれどそれは微々たる量かもしれなくて。人ひとり、まだ数えるほどの時間で。別の人ひとりの考えすべてを読みきるなんてまるで無謀かもしれなくて。
きっとそれは無謀でしかなくて。
だから、その距離を物理的な距離の面で縮めたかったから、かもしれない。
静謐な雰囲気、たとえつぶれかけた礼拝堂でも神の力は宿っているのか。
普段はきっと考えもしないそんなことを、マリアはつらつら思う。
フェイトが大切、それは事実。
心の距離が淋しい、それもきっと事実。
どんな方法でも良い、少しでも距離を縮めたい――それだって事実で。
こうして抱きあってもまるで縮まらない距離がもどかしいけれど、抱き合わないことには縮まらない距離だって事実存在して、それが淋しいから。
「……僕はさ、」
ぽつり、降ってくる言葉。
雪のように花びらのように、軽く降り続いていつか積もってくれればいい。
「僕の関わったすべてが、ハイダみたいな悪い方向に行くなんて、きっと耐えられないんだ」
降り積もってかたまって、消えないカタマリになったらいい。
「利己的だって、笑っても良いよ。
僕の力じゃなくてもいい、平和が広がってほしいんだ。僕の見えるところで、平和になってほしい」
そうしてそれをたくさん集めて、それだけこの遠い距離を埋められると錯覚していたい。
「マリア。
――僕はこのアリアスの平和になった姿を、見られるかな?」
「……そんなに長く、この星にいたいの?」
困ったように笑いかける彼に、可愛気のない言葉を返して。けれどマリアは、可能な限りやわらかく微笑む。
「そうしたいなら、努力すればいいのよ。何もできないなんて最初からあきらめるなら、大それた願いなんて抱く資格ないんだから」
厳しい言葉を返して、けれど微笑だけは誰もやさしく浮かべていられるだろうか。
「先を急ぐ身よ。
……でも、真実そうしたいなら、協力してあげてもいいわ」
「はは、厳しいな」
――マリアらしいや。
笑うフェイトが、マリアの目になんだかどうしても遠く映っている。
目の前に、すぐそこにいるあなたが。
本当にすぐそこにいるのか、不安で、ただとても不安で。
「ねえ、フェイト、」
アリアスの、うらぶれた小さな礼拝堂で。二人以外誰もいない、けれど確かに静謐な礼拝堂で。
耳が痛くなるほどの静寂の中、
マリアが小さくささやいて、フェイトが今度は顔全体で微笑んだ。
――そうして言葉が、やわらかく降り積もる。
星明りにかすかに、ごくかすかに。
床に照らされたステンドグラスの影が、――人影で遮られる。
