そのどうやら照れている姿が、なんだかたまらなくいとおしくて。
ただ、いとおしくて。
「……おい」
「なんだい?」
街に到着して、じゃあ夕食の時にと一同解散して。陽はまだ高く、とりあえず早めに昼を食べようと思っていたネルは背後から呼ばれて振り向いた。
心を許していないわけではないけれど、まだ「仲間」と呼ぶにはだいぶ抵抗のあるアーリグリフの漆黒団長が、予想通りの仏頂面でそこにいて。何かを言いかけては躊躇してを三回ほどくり返したあげく、ここが大通りだということにようやく気が付いたように。
なんだかあわてたように周囲を一回ぐるりと見ると、付いて来いと言うようにあごをしゃくった。
場所が場所だけに、彼が彼だけに。はた目からも敵意をぶつけられる中、背筋を正して平然と歩いていく男を。もちろんだからといって付いて行かなくても良かったのだけれど、
少し考えてからネルの脚が追う。
シーハーツの首都にして王都、シランドの街。白亜の石と緑とがあふれる、戦争の傷痕が癒え切らない今でも十分に美しい街。
ネルが何よりも誇りに思っている、何よりも思い入れを持つ。
そんな、街。
「まったく、何だってんだい。これでも忙しいんだ、馬鹿な用事だったら怒るよ」
「うるせえ」
脚を踏み出すまでに数拍置いていた上、さすがに後ろめたいのかなんだかいつもよりさらに早足の男のせいで。その特徴的な姿を、実のところ一度は見失った。ただ、それまで向かっていた方角と読みやすい男の性格を読んで、町の東、ちょっとした庭園のようになっているそこにネルは向かってみる。
果たして男はそこにいて。いつもどおり無闇に偉そうに、腕などを組んでいて。
もうすっかり見慣れたふんぞり返っている姿に、それだけでネルは馬鹿馬鹿しくなって深く深く息を吐く。ここで踵を返したら、この男は一体どんな顔をするだろう。
――やらないけれど。
「まだるっこしいのはお互い嫌いだろう? 用件を言いな」
「……はッ」
腰に手を当てて促せば、きっと癖なのだろう、小馬鹿にするように鼻を鳴らして。だったらいいよと肩をすくめてそのまま城へ向かおうとすると、あわてたようにその手が肩を包む。
――本当に、馬鹿馬鹿しい。
――こんな、読みやすいガキみたいな男を。
――その技量はともかく、なぜ過去の自分は、自分たちは。
――あそこまで、誇大評価していたのか。
「……待て」
「だったら早くしてほしいもんだね?」
肩の手を重ねるように手を乗せて、ため息のように吐き出せば。一度跳ね上がったあげく、たぶん反射的にあっという間にそれは引っ込んでいった。身体ごと向き直れば動揺を隠し切れないぎくしゃくが、なにやら――、
――どうやら引っかけられたらしい。
わざわざ手まで伸ばして止めようとした自分が馬鹿らしくなったアルベルは、ひとつ息を吸うとそれで気持ちを切りかえた。――実際はそれができている自信がなかったけれど、切りかえたことにしておく。
そうして、彼女から一歩引いて。少し迷ってからもう一歩引いて、覚えたての印をぎごちなく切ってみる。思ったよりもそれがうまくいったようなので、これもまたおぼえて間がない長い長い呪紋を、別の印を次々組み合わせながら唱えてみる。
向き合ったかたちの女の顔が、なんだか驚いているのが面白くて少し腹立たしい。
――普段一体どんな目で自分を見ているのだと思う。
――まあ、たぶん実際の彼とそれほど外れてとらえてはいないと思うけれど。
印まで切って、いかにも慣れないようにたどたどしく呪紋を唱える姿を。まさかそんな目論見があって先ほど呼び止められたとは予想だにしていなかったネルは、ただ驚いて瞬いた。
驚いていても、目は印を追っていて耳は呪紋を追っていて。
それが、戦闘の時によく聞く攻撃の呪紋やら補助の呪紋やら、癒しの呪紋やらとは違うことを知って、さらに驚いた。そういえば彼はまともに呪紋を知らないはずで、そうなるといよいよ驚きで頭の中が真っ白になる。
――この、呪紋は。
――あたしも、聞いたことのないこの呪紋は。
――文法からすると、これは、
――……これは……?
長い呪紋を最後まで間違えずに唱えられるかは、正直賭けだった。過去何度か試しに唱えてみたことがないわけではなかったけれど、一度も成功したことがなくて。呪紋全部を正しく覚えられたかがまず疑問だったし、次々切っていく印も、本当に正しいかどうかは分からなかった。
言ってみればぶっつけ本番だったけれど、どんどん呆けていく女の顔に心に余裕が生まれる。慢心するほどでもないそれは、どうやら彼の助けになってくれている。
そして、最後の一声と、最後の印が。
白と緑の中に、消えて。
「っ!?」
――陽が陰った。
シランドの重鎮として呪紋に近しいネルには、それがどんな効果を持つものなのか、文法を聞けば分かる。だから、何が起こるかも当然分かっていて、けれど本当にそうなるなんで実のところ信じきっていなかったらしい。
暗くなって驚いて、空を仰ぐ。
空はそのまま、今日も良い天気で、良い天気のままなのに視界は陰ったままで。
――これは、
なにごとだい!? 叫ぼうとして、舌が凍りついている。印と呪を終えた男はなぜか興味深く周囲を見ていて、その姿がどうにも、
「……あ、」
ふわり、何かが舞った。
ふわりふわり、次々舞い落ちて舞い上がる。
「これ、は……」
呆然とした彼女の声に、してやったりとアルベルは頬を緩めた。緩めたままゆるく手を上げて、ふわりと舞うそれをてのひらに受ける。
けれどてのひらをすり抜けて、それはまたふわりと舞って、
ひょう、とそのとき吹いた風がまるでなかったように、ふわりとまた優雅に舞って。
「……雪、かい……?」
「てめえが言ったんだろうが」
呆然とした考えそのままに、どうやらつぶやいていたらしい。つぶやきに答えがあって、びくんと背筋を正したネルは両てのひらにそれを受ける。
するり、彼女の手を幻のようにすり抜けて舞う、白い白い雪。雪、に似たもの。
――シランドはあたたかいからね。
――あの街で雪を見ることなんてたぶん一生ないだろうし、そんなことになったらまさに天変地異ってもんだろう。
――分かっているけど、見てみたいと思うんだ。
――これだけきれいなものを、あの街で見ることができたら、って思うんだ。
呆然とするネルの脳裏に浮かぶ、いつかの会話。どんな用だったのか、アーリグリフの街を男と歩いた。その時世間話のように交わした会話。
ネルはすっかり忘れていた、その言葉を。
この男は覚えていて、ずっとずっと方法を探していたのだろうか。
ふわり、舞う雪はどこからともなくどんどん降り積もっていく。
降り積もって、けれど舞うときと同じように積もったそれにネルは触れられない。
寒くもなく冷たくもない雪が、ただどんどん積もっていく。
誰にも触れることのできない白で、周囲が埋め尽くされていく。
「単なる幻術だ。別に大したことじゃねえよ」
「……でも、あたしの知らない術だよ。文法も、ずいぶん古い。
あんた、どこでこんなもの、」
「……どこでだって良いだろうが」
気付けば膝まで埋まっていて、けれど幻の言葉どおり実際の雪の抵抗感はなかった。ネルの見た目には周囲の景色が一変していて、けれど実際は何事もなくあの緑と白があるのだろう。
持って、もう一度周囲を見回して。
脳裏に、仏頂面で古い文献をあたるアルベルの姿が浮かぶ。
きっとぶつくさ文句を言いながら、それでも真面目に資料を引っ掻き回す姿が浮かぶ。
――それは、すべてネルのためで。
――すべてネルの何気ない一言がきっかけで。
実際は何があったか知らないけれど、本人が白状しない限りネルには分からないけれど。
きっとそれなりに努力して呪紋を調べて印を調べて、たぶんいくらかは練習してくれたはずだ。途中からきっとすぐに飽きて、それでも意地でも投げ出さずに調べてくれた、練習してくれた。
それは、
思ったネルの身体が、勝手に動いていた。
満足そうに笑っているアルベルに腕を伸ばして、身体ごとぶつかっていく。驚いて、それでもちゃんと受け止めてくれた彼に、
……ああ、顔が熱い。
そのどうやら照れている姿が、なんだかたまらなくいとおしくて。
ただ、いとおしくて。
シランドの街、白と緑が美しい町。
東の庭園の片隅で、ひとつになった影はなかなかはなれない。
