――ねえ、ひとつだけあんたに言いたいことがあるんだ。
いつものようにアルベルが敵に突っ込んでいって。その刃が届く前に、しかし彼は横殴りに吹き飛ばされた。
はじめて相対した敵のリーチが分からなかったからとか、そんなことはどうでもいい。
問題は、そうして見事な放物線を描いたアルベルが空中でまともな受身を取らなかったことで。そのまますごい音を立てて地面に激突して、それでも何も動かなかったことで。
ネルだって斬り結んでいたから、すぐには駆けつけられない。ただ横目に見ているしかできなかった。全部、見ているしかなかった。
邪魔をする敵を何とかしようと焦っても、でもそうやってまごついている間も彼は動かなくて。
血が凍りつくとは、きっとああいう感覚なのだと思う。
――何も考えられなかったことは確かで、そもそもあのときの記憶は曖昧なんだ。
――誰かの助けがあったのかもしれない、それさえよく分からない。ただ、出遅れたけどなんとかあんたの元に走っていって、
……あんたにトドメを刺そうとしていた敵は、どうしたんだったっけか……?
ネルはぼんやりと、のばした自分の手の先を見ていた。夜気にそれはすでに冷えていて、正直指先の感覚はほとんどない。むき出しの腕もそういえばずいぶん寒くて、気付いてみればかたかたと細かく震えている。
――あの時、とにかくやっとあんたの元にたどり着いたあの時。
――あの時も、この手はこんな風に震えていた。
――そうだ、それこそ指先が冷たくてさ。感覚がなくて。
――寒くて、指先だけじゃなくて全身寒くて。
――心臓が凍り付いたって、きっとあんなに寒くなんてないと思うんだ。
やっとの思いでたどり着いて、他に何も思いつかなくてネルはただ回復の呪文を唱え続けていた。それだけ動揺していたのか実際は何度も何度も唱えそこなって、まともに術を発動できたことは何回あっただろう。
――どうにか指先にともった光は淡くて儚かった。
――今にも消えそうなその光が、あんたの生命の炎に見えて。
――ああ、だから余計に焦ったのかもしれないね。
暗闇の中、ネルは微笑む。他にどんな表情をすればいいか分からなくて、だからとりあえず口の端を持ち上げる。
そのまま感覚のない指先をぐっと握りこんで、一緒にぎゅっと目を閉じて、
そこで不意に熱いものが伸ばしたままの腕に巻きついた。え、と思わず瞬くと、それがずるりと彼女を布団に引っ張りこんで、待ちかまえていたもうひとつの熱いものが身体に回って、
熱い身体に抱きしめられているのだと、気が付いたときはまるで身動き取れなくなっていて、
「な、なんだいあんたいきなり……!? 寝ていたんじゃあ、」
「うるせ……あにやってんだよ、寒ィ……」
「ああそいつは悪かったね!!」
いかにも寝ぼけた声が生まれたのは、左の鎖骨のあたり。ふっと気が付けばどうにも気恥ずかしくていたたまれなくて、逃げたいけれど逃げられないのがなんだか悔しくて。
「はなしな!」
「うるせえ……消えそうなてめえが悪い」
――な、
もごもごもご、寝ぼけたままの声に言われて、その声に思わず目を瞬く。反応に戸惑っているうちに、身体に巻きついた腕がさらにきつくなって、
「消えるなよ……」
寝ぼけているその声が、なんだか懇願めいて聞こえて。
――何を馬鹿なことを。
――消えそうだったのは、あんただろう?
――あの時、
喰らった攻撃そのものでも内臓をいくつか痛めていたし、何より吹き飛ばされて地面に激突した瞬間、彼は後頭部をぶつけていた。ぶつけどころが悪くて血はどくどく流れていたし、紙より白い顔色はすでに死んでいると勘違いするのに十分なほどで。
脈だって呼吸だって、ひどく弱くて途切れがちで。
――あんたの方が、死にかけていたじゃないか、
――あんたの方が、消えかけていただろう?
――あたしはあの時何もできなくて、
――できたはずの何かも、回復の呪文だって、焦りのあまりまともに唱えられなくて。
「……誰が、消えるのさ。それはあんたの方だろう?
しょっちゅう怪我して、大怪我して、いつだって死にかけるのはあんたの方じゃないか」
「……てめえの方が、よっぽど消えそうだ」
抱きしめる腕が彼女の腕を自由にしていたなら、じゃあこの傷痕は何だとか、そういう証拠を突きつけてやるのに。まるで動けないから目論見が目論見のまま霧散して、
そもそも実際そうと指摘したところで、アルベルが前言を撤回していたかというと、そうとも思えない。
ネルはぐっと目を閉じる。感情をこらえるように、ただ目を閉じる。
――ああ、この腕が自由なら。
――もし、今、自由だったなら。
「消えるなよ……ネル、俺の目の前から、消えるんじゃねえ」
「勝手なこと、言ってんじゃないよ! あんたこそ無茶を改めな!!」
熱い身体に包み込まれて。きつく抱きしめられて、けれどその腕がすがり付いてくるようで。
たとえあの時本当に血が凍り付いたとしても、あの時から今まで凍り付きっぱなしだったとしても。たとえどんな分厚い氷だろうが、まるでなんでもないようにとかしてしまいそうなこの熱が、
――ねえ、ひとつだけあんたに言いたいことがあるんだ。
――ほんとはさ、ひとつじゃきかないんだけどさ。
――でも、これだけはどうしても。どうしても……。
「消えるな」
「じゃあ、約束しとくれよ。あんたこそ、死なないって。無茶して無理して、それで死んだりしないって。無茶しても無理してもいいから、絶対に死なないって、約束しとくれよ……!」
――この腕が自由だったら良いのに。
――そうすれば、こうして一方的に抱きしめられるだけじゃなくて。
――あんたを、抱きしめてやれるのに。
何かをつぶやきかけた唇を、アルベルの唇を身をかがめたネルが止めた。どくん、きっと大きく打っただろうネルの心臓の音は、たぶんアルベルに届いていたと思う。
届いていたらいい。
届いていなくてもかまわない。
ただ、
約束をしてほしい。
一人で死なないと。
見えないところで、見ているところで。
先に逝ったりしないと。
消えたり、しないと。
どくん、またひとつ打った心臓は果たして自分のものだろうか。
ネルは黙って微笑んだ。
その微笑んだ唇に。
――熱いものが、触れる。
