――手をのばせばきっとすぐにでも触れることができるのに。
――ほんの少しの勇気が、足りなくて。
「フェイト?」
工房で執筆をしていて。同じラインについていた彼の手が止まっていることに気が付いて、ふと顔を上げて声をかけてみたなら。
何だか、寝ていた。
「……ちょっと、」
ぷくっとふくれたマリアが唸っても、彼は気付かない。うつむき加減にこっくりかっくり、起きたならきっと首が痛い感じに寝入っている。積み上げた資料が額のすぐ近くにあって、もう少し放っておいたらそこに頭突きでもかますか、もしくは勢いあまってその資料をすべて豪快に崩すことだろう。
「もう……」
位置的に悪くて、手をのばしても山積みの資料が邪魔できっと届かない。というかその資料はかなりホコリに汚れているから、触れたくない、服がきっと汚れる。わざわざ席を立って回り込むのも何だか癪だし、かといってあまり大声を出すのも。
「……うー……」
誰にも見せたことがない、養父にだって見せたことがない、それはフェイトにも。そんな子どもっぽい顔で唸って唸って、マリアはぐっとペンを握り締めた。
――ひなたにある、そのぬくぬく気持ち良さそうな顔が。
――顔に影がかかって、それで少し疲れて見えて、実際疲れているのかもしれない彼が。
――薄く開いた口が、伏せられてはじめて分かる意外と長いまつげが。
――起こしたくない、ずっと見ていたい。そんな無邪気な寝顔が。
ずるい、と思う。
――がんばっているのに、マリアはこうして真面目にがんばっているのに。
確かに今回のこのラインのメインはマリアだけれど、フェイトだってサボっていて良いはずがないのに、それを許してしまいそうになる寝顔がずるいと思う。仕方がないわね、と許してしまいそうになる自分が何だか腹が立つし、腹が立つくせにどうにも無理にはフェイトを起こせそうにない自分がいっそ情けない。
――フェイトが寝ていることになんて、気付かなければ良かった。
――そうすれば、気にしないでいられたのに。
先ほどまであんなにさらさらのっていたペンが、今はどうにもぴくりとも動かない。
工房内の、喧騒というには静かなざわめきに、マリアはふっと息を吐いた。
その瞬間がくんとフェイトの姿勢が崩れて、どんな拍子なのか、それまで腕組みしていた彼の腕が机に投げ出される。ばかん、となかなかな音を立てて腕は資料に命中して、けれど山を崩すことなくホコリを少しだけ巻き上げて、その手はそこに落ち着いた。
上がった音に、舞ったホコリに肩をすくめたマリアは思わずその一部始終を見ていたけれど、やはりフェイトは寝入ったままで。
うつむき加減だった寝顔が、今度は何だか首を反らしたかたちになったけれど。これはこれで目が醒めたら、肩とかこっていそうだななどと思ったけれど。
――あ、
――この手には、今ならきっと触れられそう。
――つついて、爪を立てて、引っかいて。
――猫みたいに呼びかけたら、起きるかしら。
ふと思ったら、そこに注意が集中して離れなくなった。
彼女のそれと比べたなら、確実に一回りは大きいだろう手。
分厚い、というわけではないけれど彼女よりは確実に厚い。
指も太くて、何だかごつごつしていて、でもけっこうすらりとしている印象で。
実物の剣を握って間もないというけれど、てのひらもずいぶん皮がかたいように思う。
よくよく見たなら剣だこができているのかもしれないし、
手の甲に、何となく走っているように見えるスジは以前怪我でもしたからだろうか。
目が釘付けで、もはや完全にペンが止まったマリアがそうっと周囲をうかがって、
その周囲はざわざわ静かにざわめいていて、たぶんそんな二人には気付いていなくて。
静かに伸ばしたマリアの手は、けれどフェイトの手に触れる直前ぴくりと止まった。
うかがえば、フェイトは相変わらず熟睡している。くかー、と間抜けな寝息を立てて、半開きになった口はきっとそろそろのどが渇いていないだろうか。
無防備に意識を拡散して、いろいろ考えていろいろうかがっているマリアにはきっとまるで気付いていない。
それなのに。
手をのばせばきっとすぐにでも触れることができるのに。
ほんの少しの勇気が、足りなくて。
どうしても、足りなくて。
「フェイト、いい加減に、」
こうして声をかけて、彼が起きたらいい。起きなければいい。
「いい加減にしなさいよ」
マリアの右手に握ったペン、ペン先のインクはいつの間にかすっかり乾いている。一度きれいにインクを拭き取らないと、きっと次の書き出しはかすれてまともに線にならない。
「今は、クリエイション中なんだから」
ペンを握る反対がわ、彼に伸ばしたマリアの手はゆるく動いて何だか止まって、
「サボっているんじゃないわよ」
それでもどうしても、最後の勇気が最後の一息が足りない。
そして。
「っ!!」
がったーん!
それこそ何がきっかけだったのか、いきなりフェイトがばちっと目を開けて、驚いたマリアは思わず身を手を引いていた。それと前後してフェイトの身体ががくりとバランスを崩して、山積みになった資料ともども床に倒れこんだ。
なかなか盛大な音と、豪快にほこりが舞い上がる。
「あっ、た!? たたたたたた……??」
「……途中で寝ていた罰ね!」
思わず勝ち誇ったように言ってしまった自分が、いつものことながらどうだろうと疑問だけれど。もうもうと、とまではいかないもののホコリの中にしりもちをついたフェイトが、ばさばさの資料の海に沈んだ彼が、ようやく本当に目が醒めたのか痛そうに顔しかめていて。
やれやれ仕方がないわね、と差し出したマリアの手に、
ありがとう、ごめんマリア、と。
フェイトの手が、重ねられる。
