このまま、この瞬間ほどけて消えることができたなら。
このまま、こののど笛に喰らいついて。この生命を奪うことができたなら。
遠くに漂っていた意識が、ふと、何をきっかけにだろういきなり元に戻った。
見下ろす真紅と目が合った瞬間、激しく打っている心臓に気が付いた。どうしようもなく息が苦しいことに、苦しいくらいに身体中熱いことに。忘れていたそれに、気が付いて。
マリアはゆっくり瞬くと、その目をふっと伏せる。
問いかけるような真紅に気付いていたけれど、気付かなかったふりをする。
恥ずかしさに、ではなくて。けれどきっとそれとよく似た感情が、まっすぐ前を見ることを邪魔するから。ただ握り合ったてのひらに、力の入らない手で懸命に握りしめて。
ぐっと握り返される力に、涙がこぼれそうになる。
――ああ、このまま今この瞬間。
――もしも死ぬことができたなら、それはなんて満ち足りたことだろう。
凍り付いた彼女の心を、炎のような熱さでとかした彼に。きっと本人は嫌がるだろう、そんなことをふと思った。愛を知らずに育ったわけでもないのに、ふと愛に飢えている自分に気が付いた瞬間。
なぜだろう、気付いた頭の片隅がそんな物騒なことを思い付いて。
――姿を見かけて、幸せ。
――その真紅が彼女を映して、たとえ瞬間のそれだけで、幸せ。
――その声を聞くことができて、幸せ。
――その声が語りかけてきて、幸せ。
――自分の声を、心のカケラを届けることができて、幸せ。
――触れて、触れられて。とろけてしまうくらいに、幸せ。
――五感のうちひとつでも彼を感じられれば、どうしようもなく幸せ。
――彼の心が、刹那でもいい、こちらに向いたように錯覚できたなら。
それは、切ないくらいに嬉しくて。幸せで。
そうして、何気なく些細な幸せを感じるたび――今この瞬間に死にたいと、マリアがそんなことを思うようになったのはいつからだろう。
絶頂は、過ぎてしまえばあとは下降するだけ――そんな理屈からではなくて。
もちろん彼と一緒の未来を夢見ることもあるのに、それは努力をしたならたぶん不可能ではないのに。
それなのに幸せを覚えるたび、その瞬間。まず真っ先に思ってしまうのは。
――このまま、この瞬間ほどけて消えることができたなら。
そんな、うしろ向きな昏い願いで。
分かっているのに、そんなこと望みたくないのに。それなのに心をついて出るのはそればかり。
今も――今も。暗い自分の願いに、たぶん心が捕らわれていて。もがいてももがいても、抜け出すことができない。
涙にぬれて、きらきらうるんで。きれいなばかりで像を結ばない、そんな翠をただじっと見下ろしていたなら。ふと瞬時にピントが合って、ただでさえ赤かった頬がさらに赤くなると、あわてて翠が伏せられた。
いっそ信じられないほど静かに凪いだ心でそんな彼女を見下ろしていたなら。
名残に結ばれていた手に、きゅっと力が入って。きっと本人ももどかしいのだろう、力の入らないそれを、握りつぶさないようにけれど彼からもしっかり握り返す。
――ああ、このまま今この瞬間。
――もしもこの女の生命を奪い去ったなら、それはなんて満ち足りたことだろう。
自分でももてあますほどの熱を、すべて向けても当然のように受け止めた彼女に。きっと本人は逃げ出すだろう、そんなことをふと思った。酔わせる言葉もやさしい愛撫も、何も知らないくせにただ抱いた心すべてをぶつけたがっている自分に気が付いた瞬間。
なぜだろう、気付いた頭の片隅がそんな物騒なことを思い付いて。
――姿を見かければ、嬉しい。
――その翠が彼を映して、たとえ瞬間のそれだけで、嬉しい。
――その声を聞くことができたなら、嬉しい。
――その声が語りかけてきたなら、嬉しい。
――自分の声を、心のカケラを届けることができれば、嬉しい。
――触れて、触れられて。我を見失うくらいに、嬉しい。
――五感のうちひとつでも彼女を感じられれば、阿呆なほどに嬉しい。
――彼女の心が、刹那でもいい、こちらに向いたように錯覚できたなら。
それは、苦しいくらいに幸せで。嬉しくて。
そうして、何気なく些細な嬉しさを感じるたび――今この瞬間に殺したいと、アルベルがそんなことを思うようになったのはいつからだろう。
際限なく次々と望む心があるくせに、すべてを終わらせたい欲求もそれ以上にあって。
もちろん彼女と共にある未来を願うこともあるのに、それはそうと働きかけたならたぶん不可能ではないのに。
それなのに嬉しさを覚えるたび、その瞬間。まず真っ先に思ってしまうのは。
――こののど笛に喰らいついて。この生命を奪うことができたなら。
そんな、うしろ向きな昏い願いで。
分かっているのに、そんなこと望みたくないのに。それなのに心をついて出るのはそればかり。
今も――今も。暗い自分の願いに、たぶん心が捕らわれていて。もがいてももがいても、抜け出すことができない。
永遠を願う、祈る心に、
けれどそんなものは存在しないとあざける心がある。
これ以上はないほどに心を向けたくて、
独占したくて、その心は簡単に昏い方向に向いてしまう。
たとえその願いを叶えたところで、叶えてしまったところで。
その瞬間、むしろ本気で実行に移そうとカケラでも思った瞬間から。
後悔、などという言葉ではとうてい足りそうもない、心をひきつぶす重いモノに襲われると、分かっているのに。
幸せを、自分には過ぎた幸せを思うたび。
あるいは、そう思っているからなのか。
昏い願いは、いつだってそこにあって。
繋ぎあったてのひら、ようやく薄れてきた熱。心を満たすのは、いとおしさと充足感と、
――そして、
――このまま、この瞬間ほどけて消えることができたなら。
――このまま、こののど笛に喰らいついて。この生命を奪うことができたなら。
昏い昏い願いが、鎌首をもたげる。
それを押さえつけるように、誤魔化すように。
二人の手に、すがるように力がこもる。
