たったそれだけのことで、本当に本当に心の底からわだかまりがすべて解けるなんて、まるで思わない。
思わないけれど、それでも。
――あんたと仲良くしたい、その意思表示くらいにはなるだろう?
――まるで歯牙にかけていないわけじゃない、むしろその逆なんだって、そんな意思表示にはなるだろう??
はじめて直に会ったときは、敵だった。
次に会ったときは、刃さえ交えた。
それなのに、今は。――たとえば「恋人」とも言えるような、そんな仲になっていて。
――そしてネルは大きく息を吐き出した。
アルゼイ王に無理やり持たされたとかで、男には珍しくその書類、たぶんアーリグリフの重要機密が書かれているのだろう書類の束の向こうに紅の瞳が現れる。ぎろりと、にらみ付けてくる。
「……なんだい?」
「俺の台詞だ阿呆。さっきから黙ってりゃ、何だそのため息は」
「気にしとけば良いよ、あんたのせいだから」
「あァ……!?」
そこいらのちんぴら並みのガラの悪さに、そのつもりはなかったもののついうっかりいつものようにとげの生えた言葉を投げ付けたなら。
元から大して読む気もなかったのだろう、紙の束がばさりと投げ捨てられて、
「――別にあたしは、あんたにひざを貸すだなんて一言だって言ってないはずなんだけどねえ」
「……っ!」
怒鳴ろうとした、その呼吸を読んでそれを邪魔するように。見下ろす位置、ネルのふとももに頭をあずける男にことさら冷たく言ってみたなら、ものすごく悔しい顔で吐きかけた息を飲み込だようだった。
珍しく部屋にこもっていた彼女の元に、先ほど勝手にずかずかやってきて。何を思ったか、床に直に座っていた彼女のふとももにことわりもせずに身を預けてきた男。
いつもどおり傍若無人、自分本位に。まるでそれが当たり前だというような態度があまりにもあまりすぎて。結局何も言えなかった、というか何も言う気が失せたのだけれど。
それでもどうやら一応、思い返してみれば確かに自分が悪いかも、――くらいは思ったらしい。
そうして何も言えない男を見ていたら、なんだかものめずらしくて自然頬がゆるんだ。
「ばーか」
「てめ、」
頬をゆるめたまま小さくつぶやいたなら、悔しかった顔にさらに怒りが注がれたようで。ぎしっと奥歯を噛みしめると一気に身を起こして、ふとももにかからなくなった体重が体温が――なんだか淋しいような気がしたけれど、ネルは気のせいだと思うことにする。
そのまま程度の低い感じににらんでくる男を逆ににらみ返しながら、きっと先ほど覚えたそれは単なる気の迷い、と思うことにする。
最初は敵だった。
それがそのうち同じパーティを組むことになって、抱いた敵意を当初は無関心に変えようと思った。事実、最初のころはそうだった。そうしていられた。
それなのに、どんな紆余曲折を経たとしても結局、今は。
今は敵意とも無関心ともまったく逆の感情を抱いてしまっていて。たとえばこうしてひとつの部屋に二人きり、一緒の時間を過ごすことに違和感がなくなっていて。
――さきほどのため息の理由は、それだ。
あんなに嫌っていたのに憎んでいたのに、今の自分はどうだ? と思ったら自然出てきた。別に誰に対する裏切りとか、そうは思わないけれど。どうしても、心のもやもやが何だか晴れなくて。
きっと、ネルがそうと言わないことにはこの男はそんなこと察したりしないだろうけれど。
察しようとなんて、きっとしないだろうけれど。
「重いなら、邪魔なら跳ね除ければ良いだろうが」
――ほら、やっぱり気付いていない。子どもっぽく怒って、うなっている。
想像どおりの反応に、ネルはひょいとわざとらしく肩をすくめた。小馬鹿にしたような、実際はあまりに想像どおりの反応に対して笑い出すのをこらえた笑みを口元に浮かべて、だいぶ怒っている彼を見下すように首を上に向ける。
トドメのようにさらに鼻で笑ってやる。
「もしもそれやったらあんたの機嫌底なしに悪くなるだろ。機嫌悪くなったあんたはきっとフェイトたちに当たり散らして、
――あんた他人の迷惑ってものをいっぺんちゃんと理解しな」
「…………!!」
そうして子どもっぽく頂点に達したらしい怒りは、なんて。
怒った、すねた紅の瞳。整った女顔、肉付きの薄い身体。見た目だけではなくて、その雰囲気には鋭く研ぎ澄まされた抜き身の刃を連想する。他者も、自分さえ傷つけることにためらわないような、そんな危うい感じがする。
――けれど、そんな男を。見た目はともかく性格には山ほど難があるこの男を。
今のネルは、きっとどうしようもないほど好いてしまっているのだろう。
恋とか愛とかとは違う感じがするけれど、きっと好いてしまっているのだろう。
……そう、気付いてしまえばどうしようもないのはきっとネルの方で。
そんなネルと一緒の時間を過ごすことをどうやら嫌がっていない男は、それはそれできっとどうしようもなくて。
「――握手しようか」
その一言で、きっと虚を突かれたのもあるだろうけれど動きを止めた男が。男を。男に。彼を嫌っていないネルは、良いように翻弄されているアルベルにさっと手を差し出した。
「ちょっとからかいすぎたね、反省してるよ?
それともあんた、さっきのあれしつこく根に持つかい?? 天下の「歪のアルベル」が、まさかそんな器の小さいこと、言わないよね?」
「……ぁ、」
「ん?」
「阿呆!!」
きっところころ態度を変えるネルに付いていけないアルベルが低く唸って、ペースを取り戻したらきっととんでもないことを言ってきそうな気がするので、そんな反応を無視して差し出した手をことさらひらひらさせてやる。
たったそれだけのことで、本当に本当に心の底からわだかまりがすべて解けるなんて、まるで思わない。
思わないけれど、それでも。
――あんたと仲良くしたい、その意思表示くらいにはなるだろう?
――まるで歯牙にかけていないわけじゃない、むしろその逆なんだって、そんな意思表示にはなるだろう??
――からかうなんて方法どうかと自分でも思うさ。
――でも、そうやっていればあんたに関わっていられる。
――照れも気負いもなく素の「あたし」をさらけ出すことができる。
――ひょっとしたら、読んでくれないあんたでも。
――長く関わっている間に、あたしの好意を読み取ってくれるかもしれないしね?
――だから、握手をしよう?
――あたしは、あんたを嫌っちゃいない。
――昔は嫌いだったけど、今は違うんだ。
――そうやって少しずつでも、この心のしこりをほどいていきたいんだ。
――まどろっこしいって、あんたが知ったら怒るかもしれないけどね。
「――アルベル?」
「…………畜生……クソ虫がっ」
ぶつくさ言いながらも、存外素直にアルベルの手が伸びてきて。
「ところであんた、仮にも将軍なんだからたまにはデスクワークもちゃんとやりなよ」
「ぶ……ッ」
今度ばかりは完全に隙を突いたネルに、うっかり油断していたアルベルが吹き出した。
にやにや笑うネルがぐっと手をのばして、中途半端にぷるぷるしている彼の手をそっときゅっと握りしめる。
くやしさいっぱいのアルベルの顔に、さっと別の感情が走ったような気が、した。
