怖いこと、怖かったこと。
あなたに必要とされないこと。
あなたに何も、
――何もしてあげられない、こと。
遠く誰かに名前を呼ばれて、はっと我に返った。くらくらする頭にめまいを覚えてついふらりと身体が揺れて。
――結果的にそれが良かったのだろう。
つい一瞬前まで頭、側頭部があった場所を何かが行き過ぎた。抜けていった風に、何があったのか分からなくて思わず呆然と瞬くソフィアの目の前を。血まみれのアルベルがよぎると、大きくカタナを振りかぶった。
口の端が歪んだ、戦いのときのいつもの彼の笑みが、
――やけに印象的に、ソフィアの目に映る。
戦闘が終わって、血のにおいに惹かれてやってくる獣をよけるためにすぐさま場所を移動して。離れた場所に落ち着いてから思い思いに応急処置などをしている仲間たちの間を。一人離れた場所で地面にあぐらをかいて、渋い顔で包帯と悪戦苦闘するアルベルを。
やっと見つけて駆け寄って、ソフィアは何も考えないままひょいとその場にしゃがみこんだ。
なんだとやはり不機嫌そうなアルベルに見つめられて、瞬きを二回ほど。
――とりあえずまず言うべき言葉を探し出す。
「……あ、あの。さっきはありがとうございましたアルベルさん」
「何のことだ」
「助けてもらって。……きっとアルベルさんがいなかったら、わたし今ごろ大怪我していたと思いますから」
「大怪我ですまなかったかもしれねえな。
――戦いの最中気をそらしてんじゃねえよ」
「……はい、すみません」
言葉は乱暴だけれど、表情は厳しいけれど。それでもその声がどこかやわらかくてやさしくて。
少なくともソフィアには聞こえて、ほっと胸をなでおろす。
そんな彼女をちらちら見る目まで、なんだかやわらかく思えて。ことこの人にこういう目を向けられるのはきっとすごいことなのだろうと思うと、それはなんだかくすぐったい気分で。
――このひとはわたしの恋人なんです。
そんな風に、どこか誰かに自慢したい気持ちに駆られる。
「用はそれだけか」
たぶん傷付いているところを弱っているところを見られたくないのだろう。
ほころんだ顔をぱっと上げたなら、だったらとっととどこかに行けと顎で示された。……だいぶ詰めたはずの距離でも、全部を許されてはいないのが分かる。
思い知らされて、そんなアルベルに。ソフィアはじわりと気弱な笑みを向ける。
「……まだ何か用か」
「いえ。
――ごめんなさい、精神力に余裕があったなら治癒の魔法をかけることができたんですけど」
「必要ねえよ、こんなもん、」
言いかけて、声が途切れて。なんだろうと瞬くソフィアに、何だか怒った顔が向く。
「青い顔をしてるな」
「そんなことありません」
――声も、怒っている。
言われた内容よりもその声にふるふると首を振れば、包帯を巻きかけた手がのびてきて、
「冷えてるな」
「違います、アルベルさんが怪我のせいで発熱してるんです」
「嘘を吐くな。こんなんでいちいち熱なんか出すか」
「出します、生きていれば身体はそういう反応をするんです。
……いつも思ってるんですけど、アルベルさん、自分を過信しすぎです。身体に無茶させすぎです」
「何だと、」
むっとした顔が怖かったけれど、話は逸れたと少し安心した。図星を指された動揺は誤魔化すことができたと思った。
そんなソフィアをきつい目でにらみ付けたアルベルが。
いきなりぐっと顔を近づけると、頬と頬を触れ合わせる。
「あ、あの……っ!?」
「ほら、冷えてるじゃねえか。氷みてえだぞ今のお前」
「っ……!」
耳で聞くよりも肌に感じる声。実のところ貧血気味だった顔に身体にかああっと熱が上って、きっと今は真っ赤になっていて、
「――さっきぼーっとしてたのはそれか」
考える余力がなくなって、その言葉に素直にうなずいていた。
やっぱりなとアルベルが息を吐いて、近かった距離がまた少し遠くなって、
――巻きかけた包帯を邪魔そうにむしり取る。
「怪我したのか」
「し、していません……ただ、精神的な攻撃で、体力は平気なんですけど、あの、」
「アイテムは」
「精神に効くようなものは……。でも大丈夫です、明日には町に着くって話ですし!」
「阿呆、無茶してるのはどっちだ」
何気ない会話に隙を見つけて。そしてそそくさと逃げようとしたソフィアに、ずいと突き出される血まみれの腕。
何ごとかと思えば、口をへの字に曲げているアルベルの顔。
「あ、の……?」
「治療しろ。……うまく巻けねえんだよ」
「でもわたし、今は魔法は、」
「別に術に頼らねえでもできることはあるだろうが。とりあえず包帯をここに巻け、それだけでいいから」
命じられて、断ることができなくて。
おずおずと手をのばしたソフィアに、またその耳元に寄せられた口。反射的にかあっとなるのに、けれどそれに気付かないように、
「怯えてんじゃねえよ。術があろうがなかろうが、お前はお前じゃねえか」
はっと顔を上げたのは、気付かれていたからで。その理由まで、全部見透かされていたからで。
そして――そういえばやっとまともに目を合わせた彼女に、にいっと笑いかけてくる端正な顔。
「そりゃ便利な術が使えるのは良いことだがな。しょせんはおまけじゃねえか。
お前は、お前に惚れたオレを信じねえのか?」
「……あ、の……」
何かを言いたいのに何も言えなくて、そんな彼女にまるで猫のようにすり寄せられる頬。
――ああ、そういえば。
――彼の手は、今、血まみれで。
――その地で彼女を汚したくない、と、そう思ったのかと自惚れて良いのだろうか。
思って、絶対に口に出さなかったのに。触れ合った頬がこくりとうなずいた。当然だろうとでもいうように、自信満々にうなずいた。
どきどきする心臓に、さらに別のどきどきが重なって、そうだ、元からくらくらしていた頭がいよいよ沸騰するようで、
――怖いこと、怖かったこと。
――あなたに必要とされないこと。
――あなたに何もしてあげられないこと。
――あなたにとってわたしの存在が、どうでもいいモノになってしまうこと。
――けれどそんな不安を全部吹き飛ばすような、それは、
「俺を信じろ」
「……はい」
抱きしめられているわけでもない、密着しているわけでもない。けれど。
けれど大きく包み込まれている感覚に。
ソフィアのどきどきがどんどん高まっていく。
哀しいわけでも怖いわけでもない涙が。心配させたくないから流したくない涙が。涙の珠が。
――どんどん、
大きくなっていく。
