過去は過去、結局変えられるものではない、
けれど。
それでも思うのは。
抱えていた気配がもぞりと動いて、ああ朝か、と思った。思っているうちにもぞもぞしながら気配が腕を抜け出てしまって、うっかり薄目を開けてみる。
まだ薄暗い、ぴんと冷えた空気の中に身を起こした細い姿。
それほどしっかり抱えていた自覚はなかったけれど、どうやら腕から抜け出した、それだけで本人にとってはかなりの重労働だったらしい。少しばかり呼吸が乱れていて、少しばかり乱れた髪――はばさりと頭を振っただけでいつものかたちに落ち着いた。
光が足りなくてはっきりしないけれど、はっきり見えないけれど。
それはそれで良いとクリフは思う。はっきり見て気持ちの良いモノは、はっきり見えなくても見えない分想像が先に立ってそれはそれで良いと思う。
どのみち、彼女にべたべたに惚れこんでいる自分は今さら否定しようがないから。
そのままの意味でどんなネルでも、と。思う。
実は起きているクリフに、本当に気付いていないのか本当は気付いているのか。こっそりとこちらを探る気配に、彼はとりあえず寝たふりをしてみた。
知っているのか知らないのか、くすりと笑う気配。
そしてきっと――まあ床に落ちている服でも拾うためだろう、遠ざかろうとする気配を。
邪魔するように、というか真実邪魔するために、細い背中に背後から抱きついてみる。
「!? ち、」
「……なんか冷えてるぜ、おい」
「ほっときな! ていうかいきなり何するんだいこのエロオヤジ!!」
「いやー、やっぱ腕がこう、淋しいんだよ」
バカな会話のあげく、ネルが嫌がるのを分かっていながらなめらかな背中に頬擦りなどをしてみて。
そして、
……見つけた。
広くもない背に、無数に走った傷痕。
そのうちのひとつ――右肩から左脇にかけて走る、これは。
「ちょっとやめな、ヒゲ! ヒゲちくちくしてむずがゆい!!」
「……」
「聞いてんのかいクリフ!?」
わめくネルを本気で押さえ込みにかかる。もともと腕力差その他でこと体力面にかけては彼の圧勝だけれど、ふざけ半分のはずがこんな実力行使になるとは思わなかった、その驚きからだろう。
怒る一歩手前の驚いた顔が彼を見ていて、組み敷いた身体にはやはり無数の傷痕があって。
そして先ほど見つけた、
「……バカだな、痕、残ってるじゃねえか」
「なんの、……っ」
――なんの話だい、
誤魔化すためか本当に分かっていないのか、そういいかけた口が止まる。彼女を押さえ込むのに手がふさがっていたから、だから唇で触れた、傷痕。
覚えている、何しろこの傷を作ったのはたったの三日前。
それも、力いっぱい否定はされたけれど。どうやら彼をかばって作った傷だから。
忘れようがない。
どん、いきなり背後からぶつかってきた身体。
上半身だけ揺らめいて、けれどすぐに立て直して文句を言おうと口を開きかけたところで。
のけぞった身体、見開かれた瞳。
覚えている、忘れようがない。
自分を狙った攻撃に、自分以外が――きっと今一番に護るべき女が。むしろその攻撃を受けたのだ。
「ち、ちゃんと治しただろう!? 治ってるだろう!!」
「でも痕残ってるぜ」
ひっくり返りかけた声に、こればかりは真面目に言い返す。それでも暴れよう身を捩ろうとするのを、許さない。
分かっている、傷はちゃんとふさがっている。治っている。
治る前の内出血の痣も残っていないし、問題があったとして多少皮膚がつっぱる程度だろう。
分かっている。
これはもう終わったことで今さらどうしようもない。
分かっている、けれど。
けれど――、
「……治癒術が使えりゃあ、なあ」
「クリフ?」
「そうすりゃすぐにでもお前の傷ふさげたし。うまくいけば、」
うまくいけば、あるいは自己満足かもしれないけれど。
こんな痕、残らなかったかもしれない。
そう思うと悔しい。
そう思うとわびしい。
この肌に、傷を――残してしまった、なんて。
過去は過去、結局変えられるものではない、
けれど。
それでも思うのは、
――思ってしまうのは。
「あたしがそうなるかもしれないと分かってやったことだ。あんたが今さら落ち込む理由なんて、ないよ」
そう言う彼女が、
「それに第一、今さら傷のひとつやふたつ、増えたところで――、」
そう言ってくれる彼女が、
すまないと思うのに、謝罪の言葉を吐けない自分が。
何もできないから、また傷痕に口付けた。
広くはない、けれどよくよく見れば傷だらけの背中に。
そしてクリフは一つ一つ口付けていく。
困った顔のネルは分かっていたけれど。
そうしたかったから。
