国も世界も、どうだって良い。
あなたとたった二人きり、いっそどこかに閉じ込められたいと思う。
その日、起きたらあいにくの天気だった。時計を見なければ時間を見失ってしまいそうなほど空には厚い雲がたちこめていて、大粒の雨がひっきりなしに窓をたたいていた。
それでも、時間を無駄にするわけにはいかないから。
昨夜決めたとおり、ネルは朝食を取ったらすぐにでもこの町を発つつもりだった。
天気なんてかまっている余裕はない。そう、思っていたのに。
「……は? 行くのか、この雨の中」
「当たり前じゃないか。少しでも急がなきゃいけないんだから」
行儀を無視してパンに大口で噛み付いたクリフが、もごもご何かを言っている。何を言おうとしているのかは分からなかったけれど、まあたぶん文句か何かだと思う。
サラダをつつきながら、だからことさら冷たい目を向けたなら。グラスのミルクを一息にあけたクリフが、いかにも不満そうな顔をする。
「ネル、お前なあ」
「のんびりちんたらやっている暇はないんだ。あんただって分かってるだろう?
シランドにはフェイトたちを待たせているんだし、わけの分からない連中がどうやら空からこっちを監視しているって話だし」
――本当は、こうしてのんびり食事をしている時間さえもったいないと思う。
それくらい、先を急いでいるのに。
「焦っても、大して時間なんてかわらねえよ。もちっと余裕もったらどうだ、ネル」
「クリフ、あんたね!!」
「ぱらぱら降ってる程度なら、オレだって天気気にせず出るけどよ? これだけの大雨だ、冷たい雨は怪我にもよろしくねえやな」
「な、」
青い目が向いた先には、ネルの、手甲に覆われた右手。その下には包帯が巻いてあって、さらに下には昨日の戦闘で負った怪我が確かに熱を持っていて、
「無理や無茶は、やって得がある時にするべきだと思うぜ? で、今は損の方がデカい、と。
時間を無駄にできねえってのには賛成だがよ、焦るのとそれは別もんだろ??」
「……!!」
茶目っ気たっぷりにウィンクされて、反論したかったのに言葉がなかった。
それでも先を急いでいるんだと、なんとか叫ぼうとして――その呼吸を読んだように、いきなり真面目な顔をするクリフに息を呑む。
「せめてこの雨をやり過ごしてからだ。良いな、ネル」
反論は許さない、そんな迫力のこもった声に。何も言えなくてただ息を呑む。
――雨脚が弱まったならすぐに出発する。
なんとか食い下がって、その条件で妥協することにした。一度部屋に戻って荷物をまとめながら、やりこめられた悔しさでネルは唇を噛む。
――何も、反論できなかった。
――先を急ぐふりをして、本当はただ焦っているだけだということも。
――隠していたはずの怪我に、当然のように気付かれたことも。
本当は気付いていて、けれど見ないふりをしていたネルに冷静に冷酷にツッコミを入れた青い目に。
不覚ながら、どきっとした。
頭を振って思考を追い出そうとして、窓に向けた視線の先はやはり変わらず暗い空。そのうち雷さえ鳴り出しそうな、そんな悪天候。
当初の予定ではこの中を突き進んでいるはずで。
――本当はネルだって、こんな中出歩きたくはないのだけれど。
「……だって、仕方がないじゃないか」
ずきずきと熱っぽい右腕を、手甲から取り出す。魔力を惜しんで本当はだましだまし何とかするつもりだったけれど、思い切って治癒の呪文を唱えて癒す。
嘘のように引いた痛みに冷たい目を落として。
元通り手甲を着ける、ぱちんと鳴る止具の音さえ今はなんだか腹立たしい。
――本当は、本当は。
本当は、国も世界もどうだって良い。
あの男とたった二人きり、いっそどこかに閉じ込められたいと思う。
それは、いつ抱いた気持ちだっただろう。いつから抱きはじめた心だろう。
手のかかるやんちゃな子どもめいた男に、時々ぞっとするような冷酷さをはらんだ男に。
心奪われたきっかけは、何だっただろう。
分からない、何も分からないけれど。
確かなことは、今こうして足止めを喰らっていることを喜んでいる自分が、心のどこかにいるということで。同じ屋根の下、まだ十分手の届く場所にあの男がいる、それが嬉しい自分が確かにいることで。
そんな気持ち間違っていると思う。
こんな心抱いてはいけないと思う。
グリーテンの技術者、どころではない。あの男はもっともっと、ネルの想像もつかない別の場所に生きる人間で。どうやらそこから離れるつもりはないようだし、ネルもこの国を離れるわけにはいかない。
分かっているのに、心は。
心はあの男にからめ取られて、もう離れられない。最初から、いつかは目の前からいなくなってしまうと分かっている男が、それでもいざいなくなったときに。この心の、どれほどかも分からない大部分が、きっとごっそり失われると分かっていても。
「仕方、ないじゃないか」
つぶやく。
――好きで惹かれたわけではない。
――気が着いたら心奪われていて、最初からそうと望んだわけではない。
――だったらこれ以上あの男に惹かれる前に。
――奪われた心の割合が、これ以上大きくなる前に。
――最初から傷つくことなんて分かっていた、だったらこれ以上傷つかないうちに離れるべきだ。
――お互い、まだ何もないうちに。何もなかったように、離れるべきだ。
――それでも、
――それでもエゴ丸出して願ってしまうのは、
「いっそ雨じゃなくて雪だったら良かったのにな?」
「……な、」
「これが雪に変わって、吹雪いてくれりゃあさすがのお前さんもあきらめてくれたのになあ」
いつの間にか部屋の入口に立っていたクリフが、何だか笑っていた。気配に気付かないまま話かけられて驚いて、びくんと姿勢を正したネルに。
大またで近付いてきて、
顎がさらわれる。
「戦争明けで積もった疲労がまだ回復してないってのに、無茶するお前さんを休める口実になったのにな?」
「……あんた、」
「今からでも、雪に変わりゃあ良いのにな……天候が悪いとなりゃ、あちらさんも納得するだろうぜ」
どこまでがふざけていてどこまでが真剣なのか、いまいちはかりにくい男が笑う。
このまま唇が落ちてきてくれないだろうか、ふとそんなことを思ってしまって自己嫌悪に沈むネルに。
どこまでを見透かしているのか、青い目が笑っている。
心が痛くて、悔しくて淋しくて。
ネルはぐっと目を閉じた。
――雨はまだ続いている。
――まだまだ当分、止みそうにない。
