心が、押し寄せる。
それはあるいは気を抜いたなら、その瞬間呑まれてしまいそうなほど。

―― 温存 [そばにあるぬくもり]

「……くそっ!」
やっとまっすぐ前を見るようになった、あの腹が立つほど透明な碧にアッシュが奥歯をきしませた。あの日から、誘拐されたあの日からずっと立ち止まっていた自分を思い知って、ただただ悔しい感覚に他にどうしようもない。
ようやくふさがった腹部の傷をおさえて、心なしかふらつく足を無理に支えて、そして手近な壁に背をもたれかけさせる。揺らぐ心を荒い息を、そうしていつものように落ち着けようとする。

◇◆◇◆◇◆

あいつは、変わった。
同等の存在だろうとまったく違う存在だろうと、つながっている心の奥底はそれを直に感じ取っていた。きっと本人さえ気付かない心の揺らぎだって、隠しようもなく伝わってくる、それを今ほど疎ましいと思ったことはない。
そして変わって何より強くなってきたのは。
――心を占める、このほんのりしたあたたかさ。

同調していようとなんだろうと、さすがに考えの細かいところまでが分かるはずもない。声を届けても、目を借り身体を操ることはできても、互いの思考そのものを読むことは今まで一度もできなかったし、それはきっとこの先もずっと、たとえば彼ら二人以外の誰かだとしてきっと確実に不可能なことなのだと思う。
けれど、思考は読むことができなくても心はなんとなく伝わってくる。意識しようとしまいと、いや、意識して追い払おうとしてさえ喜怒哀楽の感情は伝わってくる。
何が起きたのか分からなくても、何かがあったのだと分かるくらいには。

ティア・グランツ。メシュティアリカ・アウラ・フェンデ。
あのヴァンと血を分けた妹、神託の盾騎士団所属の音律士で、ユリアの譜歌を謡うことのできる女。亜麻色の長い髪と切れ長の涼やかな蒼い瞳、白い肌をした、月光が似合う佳人。
――ルークが何より大切に思っているひと。

同調してほんの初期のころから、それを感じ取ってはいた。時間を経るごとに事態が展開するごとに、それは気のせいではなく確実に大きく育っていった。
多くを望まない、ただ彼女が生きて微笑んでくれるだけでこみ上げる嬉しさ。
見返りを求めることなく、彼女のために何かをしてやりたいとただ願う心。
哀しいすべてを触れさせたくはなくて、ほんの些細な喜びさえすべて与えたくて。

――それはきっと世界で何よりも純粋な感情。
アッシュ自身、知っている。向ける相手こそ違うけれど。

◇◆◇◆◇◆

きしり、奥歯がきしむ。波打つ感情の行き場が見当たらない。苛立つ自分を分かっていて、レプリカの感情に引きずられる自分がただどこまでも情けない、許せない。

◇◆◇◆◇◆

誰よりもいとおしいひと。
心からいとおしいからこそ、触れることができないひと。
この手が触れることで、そのひとの何かを変えたくはない。自分の影響でそのひとを変えたくはない。よごれた自分の手で触れることができるはずがない。
すぐそばで、離れていてもこの世界のどこかでただ微笑んでいてくれればいい。
自分がしたことで哀しませることは、何よりいやだ。けれど哀しんでくれること、そのものは自分勝手に嬉しい。

心に伝うのは、言葉にするならそんな感情。彼自身抱く心とそっくり同じで、何かが違って、同じこと違うことそのどちらもが許せない、吐き気がする。
心、そのものは心地が良いもののはずなのに。純粋で不器用な心は、感情は、行動は。ほほえましくさえあるはずなのに。
やつをそろそろ認めてやってもいいと思えるように、やっとなってきたのに。
……けれど二つが重なると、どうしても気分が悪い。
そんな自分を思い知って、ただどこまでも気分が悪い。

それとも、想う心のかたわらに想い人のぬくもりがあることが許せないのだろうか。今ただ一人でこんなところにいる彼自身との違いが、出来が悪いからとはいえ仲間たちが周囲にいる、その違いが悔しいのだろうか。
許せないのは、ひょっとして納得して選んだはずなのに揺らいでいる自分自身なのだろうか。

◇◆◇◆◇◆

「知るか……っ、くそ、」
こんなところでじっとしていてはだめだ。音素の剥離で力はいよいよ失われていくばかり、じっとしていて回復するものは何もない。事態は急展開を続けている、じっとしていてはそれに乗り遅れてしまう。
何よりじっとしていては思ってしまう、考えてしまう。つきつめればつきつめるほどに自身に怒りを感じる、ただそれだけの思考の泥沼に陥ってしまう。
押し寄せる自分ではない感情の波にさらわれてしまう。

心が、押し寄せる。
それはあるいは気を抜いたなら、その瞬間呑まれてしまいそうなほど。

だから彼はまっすぐ立ち上がった、駆けるほどに歩きはじめた。
心の行き場など知らない、知りたくもない。揺らぐ心も満ちる心も、自分の心以外でそんなもの感じ取りたくはない。

自分ではない心は、それでもただすぐそばにぬくもりを感じている。

―― End ――
2006/08/25UP
そばにあるぬくもり / 安心をくれる人へおくる5題_toaルーク×ティア_
OFP
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温存 [そばにあるぬくもり]
[最終修正 - 2024/06/14-16:36]