たぶん、認めたくないこの心で。
――……それでも、
別に花を手向けるつもりなんてなかった。ここで――この森で花を手向けたい相手がいるとするなら、それは彼女にとってたったひとりの特別なひとに対してで。そのひととあの少女は、どこをどう間違えても別人だった。
それなのに道々、なぜだか何気なく摘んできた野の花々が。するり、手からこぼれ落ちていく、今はそれにかまいたくはない。
つん、と、鼻の奥がなぜだか痛くて、その痛みに視界が揺れている。
チーグルの森、人の通ることのできる道をたどった、一番奥。寿命で枯れた大きな樹の中が空洞になってふかふかに苔むしていて、暗いはずの中、どこか外に抜ける穴でもあるのかちらちらかすかに陽光が射し込んでくる。
彼女の他に人はいない、獣の姿も今は見当たらない。
時間さえここではまるで静止しているように思えて、それはないとアニスは笑った。――たぶん、口元はなんとか笑みの形に歪んだと思う。
ここで、一人の少女が死んだ。
アニスのことを仇と呼んだ少女が、他でもないアニス自身の手にかかって死んだ。
目を閉じたなら、まるでその瞬間を切り取ってあるように脳裏に鮮明な記憶が浮かぶ。
傷だらけで地に倒れ伏して、痛いと泣いていた彼女。どこ、と大切なひとを呼んでいたあの大きな澄んだ目は、きっとそのころには何も見えていなかったのだろう。ごめんなさい、と謝っていた声が今も耳にこびりついてはなれない。血を吐くように、アニスを呪ったあの顔も声もすべて覚えている。
いつだって泣きそうな顔で、ぽつりと頼りなく立っていた。いかにも弱そうにいかにも脆そうに見えて、実際は強くてかたくななで、その分とてつもなく純粋だった。
そんな彼女をアニスはきらいで、そんな彼女がアニスはきらいではなかった。
あの時誰かに責められたかったアニスを、たったひとり彼女は責めてくれた。恨んでくれた、憎んでくれた。仲間にかなえてもらうわけにはいかない醜いわがままを、知らず彼女はかなえてくれた。それは心から、掛け値なく彼女の本心から。
だからあの日の決闘を、決して後悔しているわけではないのに。
「……アリエッタ、さあ」
ぽつり、自分の声がつぶやいて、それが聞こえてはっとなった。
「ネクラッタ、あんたさ、」
はっとなったからわざわざ言い直して、
――アリエッタ、根暗じゃないもん!
いつものあの文句がなんだか耳の奥に聞こえて、きっと泣きそうな顔で、アニスは笑う。
「あんた……満足だった?」
誰もいない、獣さえもいない。分かっていたからどこへともなくアニスは問いかける。
……満足、だった……?
何が、と言葉は続かなかった。ぽろりとこぼれ出た言葉は、何を、とは言わなかった。
たぶんそれでいいのだろうと、自分のことなのにまるで他人ごとのようにアニスは思う。
アニスのイオンと彼女のイオンは別人で、
アニスはイオンを守ることができなくて、イオンはそんなアニスのせいでこの世から消えてしまって、
彼女はだからアニスを憎んで、
アニスは彼女から決闘を申し込まれて、
――この小さな手が、きらいではなかった彼女の生命を奪った。
道々何気なく摘んできた花が、見れば足元にばたばたと散っている。踏みつけたならすぐさま、放っておいても明日にはかわいそうなほどしおれてしまうだろうこの花たちは、決して彼女に手向けたものではないとアニスは思う。
……だって、その花を摘んだのは彼女の生命を奪ったこの手だ。
だから、絶対に。……こんな花、彼女に手向けたものであるはずがない。
またたいたなら頬を伝うなまぬるい感覚、気付かないふりをしてアニスは笑う。
「あのさ、ネクラッタ」
見た目だけでも、形だけでも口元を歪ませる。
「あんたは信じるかな、……あたしは信じられないけどさ、」
誰もいないから、そんな醜い笑みを無理やり浮かべて、
「あたし、たぶん。……あんたのこと大っきらいだったんだけどさ、」
広いひろい樹のうろの中、アニスの声がか細く響いて、
「……だけどあたし、あんたのこときらいじゃなかったみたいだよ?」
ばかみたいにふるえた声が、消えそうに細くうろの中に響いて、
「だから、偽善で思ってるんだ」
――声はやがて、声になっていないけれど。
「あんたが満足だったらいいな、って」
たぶん、認めたくないこの心で。
――……それでも、願う、きっとそれはすがるように。仲良くしたいとも仲良くできたとも思わないけれど、それでももう二度と修復できない関係になったからこそ、アニスはまっすぐにただ思う。
「謝らないし、謝れないよ。譲れないし譲らない。……けど、あんたが満足してたらいいって思う」
彼女の生命を奪った手で、頬をぬらすものをぬぐうことができなくて。どうにもできないままどことも知れない虚空に、誰にも届かない嗚咽の声をアニスが張り上げる。
「信じなくていい、けど、……っ」
手向けの花なんてない。
血にまみれた手で摘んだ花なんて、手向けるつもりはない。
チーグルの森の一番奥、暗くて明るい時間さえ凍りついたような洞の中、
声のない声を張り上げるアニスの周囲に、ばらばらとただ花が散っている。
