たとえ上に立つものが存在しないとしても、
だったら、――たとえば横になら。
「……危ないですよ」
白い石でできた足場の上に、ぼうっと座り込む背中に。凛として、けれど哀しいほど細いその背に、ジェイドはなぜだか声をかけていた。
「ここは……ずいぶん高い場所にありますのね」
振り向きもしない背が答えになっていないそんなことをつぶやいて、くすり、何がおもしろいのかそんな吐息をこぼす。その隣へ歩いていってかつりとひとつ踵を鳴らして立ち止まったなら、それを待っていたわけでもないだろうにどこまでも優雅な物腰で、何もない虚空に向けてすっと彼女が手を差し出した。
たったそれだけがいつになくナタリアを危うく見せて、彼の目にそれはひどく痛々しいものに映って。
ジェイドはただ、無言で目を伏せる。
先刻、彼女は想い人を喪った。
先日は血の分けた肉親をその手にかけた、その前には父と慕っていた王に存在を否定され、一度は国を追われた。立て続けの衝撃に決してくじけない強い少女ではあるけれど、誰より強いからこそ、その背を見続けることのなんて歯がゆいことだろう。
そうして思わず目を伏せたジェイドを、彼女は決して見てはいないはずなのに。
ふふっと、影のない小さな笑みがその口から漏れる。
「先ほどは、失礼しましたわ」
ひらり、声に誘われちらりと見やったなら手袋に覆われた小さな手が宙を舞って、それはまるで蝶のようにも、積もらずにただ舞う雪片のようにも見える。そうして儚いものに似せて虚空に手を遊ばせる彼女が、ただどこまでも明るく、
「あんなときに呆然としてしまって、結局みなに迷惑をかけてしまいました。……あなたにも」
「……別に、どうということもありませんよ。というより、てっきり私は嫌われたものと思っていましたが」
「あら。あの程度で嫌う程度のあなたなら、わたくし、きっと今ごろは我慢できずにこの旅からとっくに降りていましてよ?」
それはたぶん強がりの台詞で、けれど見事に平然としたもので。ふと思わずほころんだ口元を隠すように、彼は遠く彼女が見ているものを探そうとする。
「――おや、本当に高いですね。落ちたらひとたまりもなさそうです」
「あなたがおっしゃると、まるで大したことがないように聞こえます」
「心外ですねえ」
「だって、そう聞こえるんですもの」
ころころと笑うナタリアの声に、だからその奥にひそむ虚無の色に気付かないふりをする。
あるいは明るい声の裏に、昏いものを望んでいることに。
王女、民を率いるべき存在。
たとえ血筋がそれを否定しても、そうあるべきと育てられ、そうあろうと努力し続けてきた彼女はどこまでも王者で。だから彼女は、誰にも弱いところを見せないのだと知っている。誰にも見せられないのだと知っている。
そんな中きっと唯一、同じ立場にいられたかもしれない彼女の伴侶は。――けれどそれを叶えることなく、先刻、生きている彼らにはもう手の届かない場所にいってしまったから。
たとえ自分を喪うほどに哀しんでいても。
たとえ自ら生命を損なうことができなくて、だから他者にそれを望んだとしても。
そういう昏い心を、王者は抱いてはならない。仮に抱いたとして誰にもそれを勘付かせてはならない。
――他でもないナタリアが、そう思いそう振舞うのなら。役者不足のジェイドは、それに従うしかない。従いたいと思う。彼が仕えるべき王は別にいるけれど、旅の仲間として、
――あるいは、
「――危ないですよ、ここは、……高いですから」
「分かっていますわ、心配していただいていることも。けれど、……けれど。どうか、もう少し」
仲間として、以上に。あるいは他に並び立つ者がいない、君臨する者として同類の彼女を。
その望みをかなう限り尊重してやりたいと、
――言葉にするなら、あるいは彼はそんな風に思っているのかもしれない。あやふやにそう思って、つきつめるまでもないと考えを打ち切ってぐるりと視線を動かして、
ただ目に映るのはホドのレプリカ、彼の編み出したフォミクリー技術によって生まれたニセモノの大地。幼い彼が生み出し、やがて彼の手を離れた技術が形作った不自然なモノ。
あるいは、彼の罪をこれ以上ないほどに具現化した、
きっと心の底で、本当は誰より嫌悪していたのかもしれないそれらが、けれど、
けれどこの金の髪の王女さえその中にいるのなら、それほど醜いモノには見えなくて。他でもない自分のそんなことを思わせる彼女を、ああ、だから可能な限り尊重してやりたいのだと。それだけの価値をナタリアに認めているのだと。
ジェイドはくっと口の端を持ち上げた。ひどく道化の自分が、珍しく純粋におもしろかった。やがて立ち上がったナタリアは結局一度もそんな彼に振り向くことなく、ただ細い背から儚さがいつか薄れていて。
たとえ上に立つものが存在しないとしても、
だったら、――たとえば横になら。
それさえかなわないとしても、だったら、……たとえば。
信じられないほどの高所にあって、けれど吹く風は今はどこかやさしかった。
他に並び立つ者のいない二人は、だからそのままただそこにたたずむ。
