記憶よりももっと奥深く。
こころの底に焼き付いた紅は、記憶を失くした今も、
「…………」
彼は無言のまま自分の身体を見下ろしていた。正確には、左腕を。そこに禍々しく残る竜のあぎとに似た痕を。
それは醜いからでは、なくて。
まるで思うように動かない、力の入らない自分の腕に。途方に暮れているからで。
「……支度はできたかい?」
そんな彼に声をかけつつ、何の躊躇もなしに部屋にすべりこんできた人影。まぎれもなく女性の姿にぎょっと身をすくませる。なにしろ彼の姿は身支度前。うら若い女性にこんな姿を堂々と見せるのは、露出狂のケのある者のみだろう。
普段の彼の格好を知る者――たとえば仲間たちには、冗談に違いないそんな思考をアルベルは走らせる。
「な、お、お前……!」
「ネル、と名乗ったろう? 人の名くらい呼んだらどうだアルベル」
普段の彼らを知る者――たとえば仲間たちがその会話を聞いたなら大笑いしたことだろう。けれど今のアルベルはそれを知らない。すました顔のネルはそれを知らせない。
何の表情の変化も動揺の欠片さえ見せないままに歩み寄る。
「なかなか、……新鮮なもんだね」
「? ……ね、る……」
ふ、
紅を引かれたわけでもないのに、十分に艶やかな彼女のくちびるがふとほころんだ理由を、彼は知らない。分からない。
「上出来さ。……手伝った方がいいかい?」
「……ああ」
ひょっとしたら喜んでいるように見えるネルの、その目の奥に宿るどことなく淋しさに似た光の理由も。
――手合わせでも、してみようか。
言葉通りの意図しかないのか、その裏があるのか。分からなかったけれど、そう誘ってきたのは赤毛の女だった。
刃と刃がぶつかる、空気さえ切り裂くような音が空に響いた。一度ではなく、二度、三度。数えられないほどの音の連なりは、けれど。物騒なものに違いないのに、
「……気を散じてると、怪我するよ?」
その身体ごと逆手にかまえた短刀をぶつけてくるネルが、至近距離でにぃっと笑う。舌打ちをするアルベルが刀を握った右腕に反射的に力をこめたなら、本人から背後に跳躍したのだろう。鮮やかに、紅が舞って。
途切れた記憶のせいではない、いや、そうなのかもしれない。何かもどかしさがアルベルを襲う。思うよりもずっと身軽に身体は動く。けれど、こんなものではない。これは彼の実力ではない、もっと、もっともっともっと。
動くはずだと思う、けれど自分の力がどこにあるのかが分からない。
今でさえ、思うよりも思い通りに動く身体。
……自分の限界が、見えない。
ひょぅ、
耳に、風を切る音。再び間近に赤毛の女隠密。喉元に突きつけられているのは刃を黒く塗りつぶされた彼女の得物。ほんの一息踏み込まれたならアルベルの生命はそこで終わる。癒しの術があると聞いた、けれどそれさえ間に合わないだろう。
ぞくりと背を這った怖気は、しかし、きっとそのせいではない。
「こんなときくらいあたしのことだけを、考えな」
高揚に、そして哀しみに。単純なくせに深い意味を秘めた目で、至近距離の女が、熱っぽくささやく。
きっと、そのせいだ。
記憶を、失った。
自分の過去を思い出すことができない。
そうと知って数日が経って、身体の不調はその間に癒されて、癒されていく身体とは裏腹に記憶の戻る片鱗さえない。思い出したくないわけではない。言葉で聞く自分の過去は実感が湧かず、何よりその中の自分に、今現在周囲を囲む仲間は似合わない。
似合わないけれど、向けられる言葉は気安くて。
見知らぬ記憶にない顔なのに、彼らに囲まれると警戒心はどこか薄れて。
何より、紅の色が。
鮮やかなその色が。
思い出そうとする、そのたびに。脳裏によぎる、つきりと走る痛みと共になぜかきらめく。
今こうして刃を交える赤毛の女、ネルのことを。知りたいと、思い出したいと。なぜか深く深く深く、自分のこころの奥が、叫ぶ。
記憶よりももっと奥深く。
こころの底に焼き付いた紅は、記憶を失くした今も、
どこまでも鮮やか。
