今までだって、これからだって。
……けれど、
「……? どうしましたか??」
こくんとどこか幼い感じにかしげられた細い首。見慣れた顔に浮かぶは、まるで包み込むような笑みとそれが隠しきらない程度のかすかな疑問。めずらしく下ろされた髪はゆるやかに波を描いていて、身動きの一つひとつにさらりと揺れる。ドアの向こうに見えるのは、見知ったそんな姿だけ。
変わらない、いつもどおりの彼女がそこにいて。
「……入っても?」
「どうぞ、クリフさん」
見慣れない、いつもと違う彼女がここにいる。
今までだって絶体絶命の窮地に追い込まれたことなんて何度もあった。
これからだって九死に一生だとか紙一重だとか命からがらだとか、そういったことはザラにあると思う。
それを思えば、こんな事態。なんでもないレベルのことでしかないのに。
頭では、そう理解しているのに。
「なぜそんな顔を、……なんて訊ねてはいけないんでしょうね」
部屋の壁は天井は病的なまでに白く、まさに病人のために作られたその部屋には白いシーツで整えられた寝台がいくつも並ぶ。その寝台を埋める人影は今はひとつしかなくて、そのたったひとつの人影、上体を起こした彼女に大またで歩み寄る。
彼女のこころをかき乱すことなんて滅多にないと証明するように、どこまでも平穏な微笑がそんな彼を迎える。つぶやきは聞こえていたけれど返事をすることもできなくて、それを返事をする気がないと受け取ったのだろう、そういえばと声が続く。
「先ほどマリア……が出て行きましたけど。行き会いましたか?」
「?」
養女の名が出て、そのすぐあとに不自然な空白があって。怪訝な顔をしていたのだろう、彼女は、ミラージュは苦笑によく似た笑みの吐息を漏らした。
「マリアさん、と呼んだなら怒られてしまいました。気持ち悪いわね、呼び捨てにしてくれないかしら、……そんな風に」
「そうか」
「そこまで言ったのは彼女だけだけれど、みなさん、薄々そう思っているのでしょう。私はそんなに気安かったのでしょうか。
……あなたのことも、呼び捨てにした方が?」
「……好きにしてくれ」
言いたいことは山ほどあるはずなのに、意思が明確な単語になる前に、それはほどけて頭の中に拡散してしまう。結果的に口からこぼれるのは一息にもあまる単語ばかりで、そんなクリフが自分に苦々しい気持ちを抱くとほぼ同時、彼を見上げるミラージュが、いつの間にか苦笑の影をどこかにやった彼女が、ことさらにこりとみごとな笑みを浮かべた。
「クリフさん?」
「なんだ」
「覚えていないんですけど……ずいぶん無口な方、なんですね」
そして続いた台詞に、呆けた頭はまたたく以外の動きを忘れる。あわてることのまずない声が数回頭の中をぐるぐるして、次の声がないからそれは彼の頭から追い出されることもなくて、
「…………は?」
たったそれだけが口から漏れるのに、たっぷり十秒は必要だったと思う。
今までだって絶体絶命の窮地に追い込まれたことなんて何度もあった。
これからだって九死に一生だとか紙一重だとか命からがらだとか、そういったことはザラにあると思う。
けれど彼女は、どうやらそういった次元とはまったく違うところにいて。
彼の中に、生命のやり取りなどよりもずっとずっと重要なところを居場所にしていて。
にこにこと微笑まれて、いつもとは違うミラージュのことだから、先ほどの台詞は決して冗談とか嫌味とかではないと、知っていた。それでも、他でもない彼女にそんなことを言われて、たぶんとてつもなく精神に大ダメージを食らった。
「いや……いつもはもっと、なんつーか、」
先ほどとは意味が違うけれど、意思が明確な単語になる前に、それはほどけて頭の中に拡散する。まともな会話になるだけの文章が、頭の中に浮かばない。
「いつもはもっとおしゃべりなんですか?」
「おしゃべりっつーと……それも違うんだが……あー、」
無邪気に、おそらく無邪気に。訊ねてくるミラージュの目がなぜかちくちく痛くて、すでに彼女のすぐそばにたどり着いていたけれど、とりあえず目線だけがどこか遠くの方に向けて、
「さっき怖い顔していたのも、そういう顔だからではないんですね」
「こわ……っ!? 野性味溢れる美形だとこの前も、」
「……私がそんなことを?」
「いや、呑み屋のねーちゃんが」
一応、会話めいたやり取りが少しだけ続いて。
途切れた会話に恐るおそる目を戻したなら、乾いたような呆れたような冷たいような、それでも彼女は笑みを浮かべていて。
「……あなたの人となり、大体分かったような気がします」
「思い出した、じゃねえのか」
「これで思い出せたなら、あなたってどんなひとなんですか」
「……その口調、だいぶ元通りって感じだぜ」
「気のせいです」
先ほどのものよりはだいぶかなり会話めいたものになって。長年のやり取りによく似た、小気味いい会話のキャッチボールに彼は知らず安堵の息を吐いていて。
「……クリフさん?」
「ん」
「まだ何も思い出せませんけど。
もしも何か思い出すなら、まず真っ先にあなたのことだとなんだか、そう、思います」
ミラージュが、笑う。
今までだって絶体絶命の窮地に追い込まれたことなんて何度もあった。
これからだって九死に一生だとか紙一重だとか命からがらだとか、そういったことはザラにあると思う。
けれど彼女は、彼女の中の自分の居場所は、どうやら特別であってほしいらしい自分がいて。
そんな自分の醜悪さくらい理解している。望みの高さも、それに見合うなんてきっととんでもない自分も。
けれど。
彼女に存在を忘れられたなら、そこはどうしようもない暗闇で。彼女にとって少しでも特別な自分を実感したなら、それはとたんにまぶしいほどの光に化けて。
ああ、今までの自分はなんて明るい世界にいたのだろうと。
いつもどおり、ではない。けれどミラージュが彼だけ知っている微笑みを浮かべてくれたから。
暗闇の中、喜びが。
光に化けて、彼を照らし出す。
