ただ、そうやって笑う顔が、呆れたようにけれどやさしく笑う顔が。
こころをしくりと痛ませて、
それでも。

―― 必得 [側にいたいと]

それは、足場だった。自分が場に立つための足場で、行き先を導く道標の足場で、仲間との距離を測るための足場だった。
失くすことがこんなにも恐怖を伴うなんて、当の本人にしかきっと分からないだろう。
取り戻したいとこんなにも痛いほどに思うものなんて、きっと本人にしか。

「……なに考えてやがる」
そしてひょいと顔をのぞきこまれて、ひとりで百面相をしていたネルは上げかけた悲鳴をあわてて無理やり飲み下した。その際変な音が立ったような気がしたけれど、少なくとも相手が変な顔をしなかったので、気のせいということにする。
「……な、」
なんでもないよと言いかけて、しかし一声目からして裏返っていた声に気付いて途中で言葉を切って、
「……んでも、ない、よ……」
不自然にならないように必死に続けた声は自分でも聞き取りにくい大きさにしかならなくて、聞こえたのか実際聞こえなかったのか、目の前にある顔が――アルベルが、わざとらしいほど眉を寄せる。
「聞こえねえな。……また阿呆なことでも悩んでるのか」
「ま、またってなんだい!? ……記憶を失くした人間が、そのこと悩んで何が悪いってんだい」
「つくづく阿呆なことじゃねえか。悩んでどうにかなることか?」
「そうじゃない……と、思うけど」
「分かってんじゃねえか。まあ、くだらないこといちいち悩むのは前からそうだったが」
「くだらなくなんかないってば! あんたにとっては……そうかもしれないけどさ……」

過去が分からないというのは、たぶん想像するよりも単純に恐怖だ。失くすことがこんなにも恐怖を伴うなんて、当の本人にしかきっと分からないだろう。
自分の過去が分からない、今周囲にいる人間を信用してもいいのか分からない。……今目の前にいる相手は。果たして自分の敵だったのか味方だったのか、好きだったのか嫌いだったのか。好きになってほしかったのか好きになろうとしていたのか、嫌われまいとしていたのか。
それが分からない、何もかもが分からないというのは。
それは、たぶんそうなった本人にしか分からない恐怖だろう。

ただ、
「……阿呆」
ただ、そうやって笑う顔が、呆れたようにけれどやさしく笑う顔が。こころをしくりと痛ませて、それでも。
その痛みが決していやなものではないと。思うこころだけは、今は真実だろうと。
すがるように、信じて。
信じるしかできなくて。他にどうすることもできなくて。

◇◆◇◆◇◆

頭部に怪我を負ったのだと、聞いた。
今は傷もふさいで痕さえ残っていないけれど、それはそれはひどい怪我だったと。
きっとだから記憶を失くしたのだと、聞いたときはなぜそうつながるのかよく分からなかったけれど。
過去を思い出そうとするたびにずきりずきりと痛むのは確かに頭部で、ああ、なるほどと。
納得しないではいられなくて。

◇◆◇◆◇◆

「……ここ数日であちこちうろうろしたが、何か思い出したか?」
「あんまり、これといって。……みんなに心配かけただけだったね」
現在地、アリアスという小さな村。どうやら自分はこの村と浅くない縁らしく、道行く人々にことごとく頭を下げられたうえ、領主屋敷に泊めてもらっているし、そこにいる領主……ではないらしいけれど、周囲の人間の対応からしてかなり偉い地位にあるらしい銀髪の女性にもやたらと親身な言葉をもらった。あとになって聞いてみたところ、自分は彼女と同じ地位にあるらしい。自分はその相方で、二人で国の要職についているとか。
そう説明してくれた、橙色の髪と紫色の髪の二人もとてもとてもネルのことを心配しているのがよく分かって、ずいぶん慕われていたのだと思い知らずにはいられなくて。
いや、このシーハーツという国でどうやら自分は本当に人望があったらしい。どこにいっても――それは王都ですら、誰もにうやうやしい態度を取られた。
それを知って、けれどまったく――何ひとつ思い出すことはできなかった。

心苦しいことばかりで息を吐くと、アルベルがフンと鼻を鳴らした。
「別に誰がどう思おうが関係ねえだろうが」
「そんなこと言えないよ。……パーティのみんなにも迷惑かけてるし、先を急ぐ旅なんだろう? なのにこんなことで足止めさせちゃってさ」
「同じこと何度も言わすな。悩んで、それで事態が解決するならいくらでも悩めばいい。だが、そうじゃねえとさっきお前も認めただろう」
「……あんたなら、きっと心底そう思えるよねえ」
あちこち見てきた中に他にそんな格好をした人間がどこにもいなかったほど、独特な彼の服装を温度の低い目でにらみつける。言いたいことは伝わったのだろうけれど微塵も気にしない様子の彼は、むしろそんな彼女を馬鹿にするように薄く笑みを浮かべている。
神経を逆なでるそれに、カチンときた。
「気にして、どうにかなるものじゃないなんて分かってるさ。悩んで取り戻せるなら、たぶんあたしはとっくに記憶を取り戻してる。
理屈では分かってるんだよ。
でも、だからって開き直るわけにもいかないだろう!」
「……生真面目なとこは、同じなんだな」
吐き出された呆れのつぶやき、つまらなそうな呆れたような、……けれどどこか淋しさに似た男の表情。そうと思うのは、ひょっとして自分の願望が見せているだけなのかと。
ふとそんな風に思って、ネルはそんな自分に呆れた。
今かまけるべきはもっと別のことだろうと。記憶を失くした自分のせいで、一体何人に迷惑をかけているのか思い知ったばかりだろうと。

◇◆◇◆◇◆

それは、足場だった。自分が場に立つための足場で、行き先を導く道標の足場で、仲間との距離を測るための足場だった。
失くすことがこんなにも恐怖を伴うなんて、当の本人にしかきっと分からないだろう。
取り戻したいとこんなにも痛いほどに思うものなんて、きっと本人にしか。

気を抜けば、抜かなくても。同じ思考にぐるぐると捕らわれるネルに、小さな吐息が降る。
何ごとだろうと顔を上げて、そこにあったのは思ったよりも至近距離にある紅。冷たいようで、こうして間近で見たなら溶岩よりもどろどろに熱い熱をはらんでいると分かる、そんな紅。
「……なに、」
「――何も考えられなくしてやろうか?」
たぶんいやなら逃げられるようにだろう、ことさらゆっくりと忍び寄ってくる腕が見えて、
「あいつらが、そのうち戻ると言ったんだ。そういうもんなんだろう。
それでも、お前が気にしないでいられないなら」
逃げるだけの猶予はあるのに、ネルの身体はまるで動かなくて、逃げようという意思も働かなくて、
「何も考えられなくしてやろうか」
間近に降る言葉は、ざらりと肌を舐め上げるようで。
それが、それは、……決していやなものではなくて。

それは、足場だった。自分が場に立つための足場で、行き先を導く道標の足場で、仲間との距離を測るための足場だった。
失くすことがこんなにも恐怖を伴うなんて、当の本人にしかきっと分からないだろう。
その恐怖を、束の間にでも忘れられるなら。

触れてもいない、ただ声の降るだけ。ゆっくりのばされた手は、まだ彼女に届かない。
そして。
――この男のそばにいたい、こんな自分のそばにいてほしい。
なぜかぽかりと浮かんだ、言葉にするならたとえばそんな感情。激情。

「……なあ、……ネル……?」

呼ばれた自分の名に、理由は分からない、けれどなぜかなぜかびくりと、

身体が跳ね上がる。

―― End ――
2007/06/24UP
側にいたいと / I・RO・HA goto_ジャンル・CP混合_
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必得 [側にいたいと]
[最終修正 - 2024/06/17-12:59]