苦しい記憶を、忘れてほしくない。
けれど無理をして、苦しんでほしいわけでもない。

―― 隔断 [背に残し]

息を吸って、吐いた。口の中がからからに乾いていて、いっそめまいがする。背中にじわりと汗がにじんでいるのを感じるけれど、別に暑いわけではなくて。
――情けない。
緊張のあまりにそんなことになっていると自覚しているから、なおのこと自分がいやになった。けれど、だからとずっと自己嫌悪に沈んでいるわけにもいかない。
それだって、分かっていたから。
「……ルーク……?」
いつものようにと自分にいい聞かせていたはずなのに、どうしても消えそうな小さな声で。名前を呼んで、中途半端に開いていたドアからそっと身をすべり込ませた。
ベッドにあぐらをかいていた彼が、たったそれだけにびくりと跳ね上がったのが見えて。
罪悪感がいよいよ大きくなる。

◇◆◇◆◇◆

――今度こそ本当の記憶喪失のようですねえ。
長身の大佐は、あきれたように途惑ったようにため息を吐いていた。
――まったくしょーがないなーあのボンボンは。
人形を背負った少女は、苦笑のような安堵のような微妙な顔でつぶやいていた。
――何をどう言やいいのかねえ、こんな場合。
当人の世話係だった剣士は、無理におどけた道化の真似をして真剣に肩をすくめていた。
――ルーク……。
金髪の王女は、ただ当人の名前をつぶやきながらひたすら混乱しているようだった。
――ご主人さま、ほんとに全部忘れちゃったですの……?
愛らしいチーグルの仔はつぶやいて。ただ、つぶやいて。

そして、彼女は。

◇◆◇◆◇◆

「ルーク、あの、」
彼のそんな状況に気付きもしないで、いつものようにきびしい台詞を投げた彼女は。
「あの、……」
部屋の入口に立って――それ以上中に入ることができなくて、ただ声を張り上げようとするのに、詠うことを知っている喉からはけれどか細い声しか絞り出せない。
あのとき、彼の態度がただ煮え切らないものにしか見えなくて、丸くなった背にきびしい台詞を吐いて部屋を後にした。
そのまま、あのときと同じように今も丸い背を見せる彼に、ルークに。言いたいことがあるのに、言わなくてはならないことがあるのに、……まるで言葉がのどの奥に詰まってしまったように。
そんなこと単なるいいわけだと、知っているけれど。

――言葉はさ、通じてるみたいだぜ。
――今は……たぶん混乱して、ついでにすねてるんだろうな。
――まったく、あいつは。

怒って部屋を出た彼女に彼の状態を伝えてくれた青年の、そして続けて聞いた言葉をゆっくり思い出す。それが後押ししてくれるわけではないけれど、それでも少しだけ落ち着いた心で、口元に笑みらしきものを浮かべてみる。
「……ルーク」
彼女に背を向けた赤い髪は、今度はそよぎもしなかったけれど。きっと彼女に気付いている、耳をそばだてて反応をうかがっている。そう、信じて。信じることで自分を鼓舞して。
無理にでもそう思えば、今すぐにでもこの場から逃げ出したい自分をきっと抑えられる。
「あなたに謝らなきゃ、ならないわね……? わたし、ひどいこと言った、わ」
「……別に」

相変わらず蚊の鳴くようだった声に、そして小さく声が返った。驚いて思わず身をすくませれば、ちょいちょい、と、指先がどうやらそんな彼女を招いている。
「そんなとこ突っ立ってないで、こっち来いよ。……気が散る」
「あ、……ええ」
一瞬呆けて、そしてあわててうなずいたなら、……彼の肩が小さくふるえたのは、今、笑ったからだろうか。

◇◆◇◆◇◆

「日記を……読んでいたの?」
「ああ」
ベッドの脇まで行ってどうしたものかと迷っていたら、そこに座れとソファを示された。素直にしたがって、その際見えたものにつぶやけば、ルークはこくりと小さくうなずく。
「……誰に何言われてもさ、今が何か変だってのは分かるんだ。忘れてるなら、思い出さなきゃって。……荷物あさったらこれが出てきたから、読めば少しは何か思い出せるかな、ってさ」
「そう……」

すべてを、仮に忘れたなら。それは彼にとって幸せだと、思う。取り返しのつかない大惨事を起こした、その時の記憶を。辛さを、痛みを、後悔を。仮に、もしも一時的にでも忘れられるなら。それは彼にとって確実に、幸せだと知っている。
思うけれど、知っているけれど。けれど。

「……言葉も文字も、ちゃんと分かっているのね」
ぽつりとつぶやいたのは、ひょっとして今も黙々と帳面を目で追う彼の邪魔をしたかったからかもしれない。思い出そうとする彼の邪魔をして、忘れたままでいてほしいからかもしれない。
「忘れてたよ。――けど、話しかけられて思い出して、これを見つけて読んでるうちになんとなく思い出した。書いてたときのこととかはさっぱりだけどさ」
これ、……彼の日記。旅先でことあるごとにこれを開いていた姿を忘れたわけではないけれど、書くためにではなく読むためにこれを開いている今の姿は、ティアにはなんとなく違和感がある。
「全然、思い出せねえんだ。……これを書いたのはおれだってなんとなく分かるけど、なんかまるで、よくできた作り話みてえ」
「……アクゼリュスの崩壊も?」
彼の邪魔をしていると知っていながら、口はただ勝手につぶやいていて。それはあるいは彼の傷をえぐると知っていたのに、勝手につぶやいていて。
そんな彼女を批難するわけでもないだろうけれど、彼がなんとなく笑みに似たものをぽつりと浮かべた。
「思い出せねえ。
……けど、なんか知ってる。読もうとすれば、ここが、なんだかぎゅって痛かった。読みたくなくて叫び出したくて、でもそんなことしちゃいけないって、――なんだか思った」
「ルーク……」
「それ、おれの名前だよな。けどしっくりこねえ。これ何回も読み返したけど、何かが違うんだ」

思い出さない方が彼は幸せだと。
思って、知っていて、……決め付けていた。
本当は違うかもしれないなんて思いも寄らなくて、それなのに今、目の前にいる彼は苦悩するように眉を寄せている。

「思い出さなきゃって思うよ。だって、なんかここがもやもやしてる。おれは、こいつなんだって……ちゃんと、そう思ってる。……知ってる、んだ。
けど、」
「ルーク、」

◇◆◇◆◇◆

ティアはソファから立ち上がっていた。頭を抱えて服の胸元をつかんで、苦悩している彼にいつか駆け寄っていた。

どうすればいいのか分からない、言葉さえ浮かんでこない。
それなのに、身体が勝手に動いていて、――場違いにただ、ああ、逃げ出さなくて良かったと。彼を放り出さなくて良かったと。

それは唐突な、閃光にもよく似た自覚。
「――おれは!」
「……思い出してほしいわ。わたしがさっき、あなたに言った言葉は――謝らなくてはいけないけど、でも撤回しない。過去があって今のあなたがいるんだもの。わたしの知っているルークは、過去があってはじめてここにいるんだもの。だから、思い出してほしいわよ。
それでも、
それでもね……? 無理してほしいわけじゃないの。自分を、どうか。……追い込まないで」

苦しい記憶を、忘れてほしくない。
けれど無理をして、苦しんでほしいわけでもない。

間近い距離の彼の、顔を隠す前髪をそっとかきあげた。薄く涙の浮かんだ碧の目が変なくらいに澄んでいるようで、見上げてくるそれに、……ああ、今度こそ本当の笑みを返す。
「あなたは、ルークよ」

過去を忘れさせたりなんか、しない。きっちり思い出してもらう。つらい過去も苦しい思いも、思い出してもらう――そして、前を向いて歩くあなたも。それを誇らしいと、いつか思うようになっていたから。
――だから、覚悟しなさい。

そんな強い笑みを浮かべれば、間近い碧がまぶしいものを見るように、なんだか細くなる。
「わたしはティア。覚えろなんて言わないわ。……だってあなたは、わたしを知っているもの」
ひっでえの、と小さく笑い声。視界のすみにルークの手が動いたのが見えた。
それがどう動こうというのか。

分からない、けれど。彼から距離を取りたいという思考は、いつかティアの頭から、
消えている。

―― End ――
2007/07/01UP
背に残し / I・RO・HA goto_ジャンル・CP混合_
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[最終修正 - 2024/06/17-13:00]