本当は生ぬるい一歩手前のくせに吹いてくる風は奇妙なほどすがすがしくて、
しらじらと夜の海を甲板を世界を照らす月は故郷で見たそれと同じ光で、
ただ、
酒瓶に口をつけて、呷った。味わうというよりも、のどをすべり落ちていきながら腹に着くころには火のようになる、その感覚をただ楽しむ。
いつもだったなら、高いお酒なんだからもうちょっと味わうとかしなさいよこのワク! などという罵声とともに拳骨のひとつやふたつ降ってくるけれど、今日はそれがなかった。こうして彼が酒を呑んでいるのを見つかけたなら確実に絡んでくる、頭が回って口達者でさらには見目も悪くない、自分が女なのをいいことにあごでゾロを使うオレンジ頭の航海士がこの場に――いないわけではなかった。またその意識だってゾロにかまう暇もないくらいにそれ以外の何かに気を取られているわけでもなかった。
中天をこえたばかりの下限月に白々照らされるのは彼女も同じ、彼女も今甲板にいる。
……けれど。
「……なあ、災難だったなあ……?」
数刻前まで展開していたお祭り騒ぎが、ようやく一息ついたところだった。大部分が騒ぎ疲れて酔いつぶれてそこかしこに転がっていて、残りの少数が適当なところでさりげなく船室に引っ込んだあとで、どちらでもないまともに意識のある人間はこの甲板にゾロともう一人しかいない。
うちの一人、ゾロではないもう片方。手尺で果実酒のボトルを干す女の肩が彼の言葉にぴくりと跳ね上がって、けれど何ごともなかったように再びグラスに口をつける。聞こえなかったのかとソロは首をかしげた。
まあ、確かに大声を出したつもりはない。
「……おい、ナミ」
「うるっさいわね、気安く話しかけてこないでよ!」
きっと聞こえなかったのだろう、それならと今度は名前を呼んだなら、たとえば機嫌でも悪かったのか、トゲのある台詞を吐いてこれ見よがしにふんと横を向いてしまった。まだなみなみとついであったグラスをまるであてつけのようにいっきに呑み干そうとして、意外と度数が高かったのだろう。もしくは変なところに入ったのか。
一気に呑み込んだ一口目で、盛大にむせ返る。
「おいおい……」
何やってんだ大丈夫かと、それなりにあった距離をあわてて飛んでいって、しつこくむせている細い背を――他にどうしようもないのでとりあえずさすってやる。と、涙目でそれでも相変わらず妙な迫力のある目が、ぎろりとにらみつけてきた。わけが分からないのでとりあえずバンザイの形で両手を上げてみせれば、それでも取り落とさなかったグラス片手に一気にずさっと三歩ほど向こうで、まだけはけはやっている。
「……なんだってんだ……」
「るっさいって……いってるで、しょ……! 近寄らないでよ!!」
あまつ。……これはそんなに迫力はなかったけれど、ゾロはナミにまるで威嚇された。
――記憶喪失になった、らしい。
朝起きたらそうなっていたのだと、詳しい説明なんて興味はなかったので盛大に流したけれど、とりあえず漏れ聞いたところではそんな話だった。
――誰がといえば、本日の馬鹿騒ぎの主役というか口実の、ナミが。
そうと判明して以降、四六時中クルーの誰かしらが当人に張り付いては笑いながら泣きながらあるいは混乱したまま彼女のそばにいたから、ゾロだけはそういえば今日彼女と直にまともに話をしていなかった。
けれど、はた目で見る限りはけっこう元気そうだったし特に大きく何かが違っているわけでもなさそうだったし本人を含めてもこの事態を深刻に悩んでいるのはたったの二人で、というか正確には一人と一頭で、当の本人さえその一人ではなくて見る限りでは笑っていたから気にしなかったけれど。
ひょっとしてそれが悪かったのだろうか。
「……いつもと同じじゃねえか」
「何か言った?」
そばというには離れているし、離れているというにはそばだしの、微妙な距離を置いて。ようやく落ち着いてきたのか、どこかかすれたような声ではあるものの普通にジト目でナミがうめいた。
気を取り直したように今度は舐めるようにグラスをやりはじめて、そういえば自分の酒瓶はどこだったかとゾロが周囲に目をやる。――先ほどナミに駆け寄ったときに置き去りにしてきたらしい。先ほどまであぐらをかいていたあたりにぽつんと頼りなく置いてある。
……取りに行くのも面倒だ。
思って目線をナミに戻したなら、ビタ一文あげないわよと目が威嚇していた。そうなるとすることもなくなって、かといって移動する気も起きなくて、いつか少しだけかたむいたかもしれない月を眺めやる。
白々と月の照らし出す世界は、いつかの深海に似ているかもしれない。
「……なあ、何怒ってんだ?」
「別に怒ってなんかないわよ。ていうか話しかけないで」
「別にいいだろ、他に話相手がいるわけでもなし」
「昼間散々無口だったじゃない。何をいまさら話すっていうのよ」
つっけんどんにトゲの生えた、それでも話しかければ小気味よく帰ってくる声。確実に機嫌は悪いけれど、それさえ気にしないならいつものナミとまるで同じに思える。
「おまえ本当にキオクソーシツなのか?」
だから、何気なくつぶやいていたゾロは、――次の瞬間ナミの果実酒を頭からかぶっていた。
……本当に記憶喪失なら、もっとしおらしくなっていても罰は当たらないと思う。
「失礼なこといわないでよこの唐変木! お酒がもったいないじゃない!!」
そんな風にほざかれては、ゾロなりに抱いていた記憶喪失に対するイメージに、なんというかヒビがはいって粉々に砕け散りそうだ。
「大体ね!」
そして自分から近寄るなと言っていたわりにずいとつめてきたナミが、空のグラスを持ったまま指差してきた。まったく教育がなっていない。……普段のナミもこんな感じではあるけれど。
そんなことを思ったゾロに、そして。
「あんた、あたしの何なのよ!?」
わめいた。
――ああ、この台詞はキオクソーシツらしいかもしれない。
据わった目になんと答えたものか、というか脳内に浮かんだいろいろがなぜか一気にすべて吹き飛んだゾロの脳みそが、とりあえずそんな言葉をはじき出す。挙動不審なそんな彼に気付かずに、こうなったらもう立て板に水のような勢いで、
「記憶喪失ってどんなものなのかあんたも一度なってみればいいのよいきなり知らない人たちに囲まれて自分のことだって何も分からなくてそれなのに今日はあたしの誕生日だからおめでとうだとかおめでとうなんて言われたらありがとうって返さなきゃって思うしみんなが楽しみにしてたんならっていうかそれだけのために仕込みがんばってくれたって聞いたからじゃあ料理期待してるわっていえば舞い上がるのがいるしなんだか便乗して舞い上がって手とか握ってきてナミおまえやっぱり良いヤツだなとか子供みたいな喜びかたしたのが船長だって聞いたときはぶっ飛んだわよ他にもいろいろ、」
一体どこで息継ぎをしたものか、今となってはそんなことに目を剥くゾロを相変わらずのじとっとした目でにらんで、にらみつけてくる女。
「全部忘れたわよ! あんた誰よ!! なんであんたがそばにいるとこんなにざわざわしなきゃならないのよ!? それなのになんでか目はあんたを追ってるしあんたはなんだかあたし見てるし、
あんたあたしの一体何だっていうの!!??」
――ああ、本当にキオクソーシツなんだなこいつ。
けんかを売る以外の何者でもない、けれど聞きようによってはかなりの破壊力のある台詞に、ようやく復活してきたゾロの脳が変に納得した。納得したと同時ものすごい笑いの衝動がこみ上げてきて、これはもう逆らうわけにもいかずに爆笑する。
何笑ってるのよと目の前の女は顔を真っ赤にしてますます怒って怒鳴って詰め寄ってきて、先ほどかけられた果実酒は気持ち悪い感じにべたべたしてきていて、本当は生ぬるい一歩手前のくせに吹いてくる風は奇妙なほどすがすがしくて、しらじらと夜の海を甲板を世界を照らす月は故郷で見たそれと同じ光で、
ただ、
「……まああれだ、誕生日おめでとな。ナミ」
「何でそうなるのよ!!!!」
たぶんなった時と同じく、あっけなくこの女の記憶は戻ると、根拠もなかったけれどそう思った。それ以外に思えなかった。
――記憶が戻ったあと、記憶がなかった間に何ほざいてくれたか教えたなら、一体どんな反応をするのだろうか。
思ってしまえば笑いの衝動は去る気配など微塵もなくて、とうとうぽかぽかとナミが殴りかかってくる。
