芯に強いものがある、
けれどやわらかな声は今も降る月光のように熱を持たない。

―― 固然 [濡れ月下]

ただぼんやりと窓を仰いだ。水の紗の向こうの月を見るとはなしに眺めるうちに意味のない吐息がこぼれて、それはひょっとしたらため息だったのかもしれない。
静かな夜、静かな部屋。――まるで世界にたった一人きりになったような。
「――あら、ガイ。まだ起きていらっしゃいましたの?」
「! ああ、……なかなか眠れなくてね」
ばかげた妄想は降ってきた細い声に微塵とくだけて、彼はあるかなしかの笑みを口元に刻んだ自分を知る。現実がひどく遠い状態に、ただ、笑みに似た何かが口元にわだかまる。

「お酒……ですの?」
「手持ち無沙汰だったからね」
声をかけてきた――あるいは彼を現実に引き戻した彼女に部屋備え付けのソファをすすめて、床の敷物にあぐらをかいたまま肩をすくめてみせる。まあ、と口元に手を当てた彼女が実際驚いているのか呆れているものか判別できないものの、まあ一緒に酌み交わすつもりはないらしいので。ビンに栓をして、グラスに残っていたものはどうしようかと迷って――結局それも床に置いた。
それから、背後を大袈裟にあおぐ。
「……良い夜だろ? 最高の肴って言ってもいいじゃないか」
「まあそれは……そうですわね」
マルクト帝都グランコクマ、王宮。水鏡の間とも呼ばれる謁見室には負けるにしろ、今夜彼にあてがわれた賓客用の部屋もまた格別の景色を誇る。水の紗をすかしての月見なんて、世界中どこを探してもそうそう拝むことのできるものではないだろう。
……とは、彼の弁ではないけれど。
「ルークは……なんだか席をはずしてるし、カーティス大佐は皇帝に呼ばれて出て行った。今のオレはうかつにあちこちうろつくわけにもいかないしさ」
「では……記憶は、まだ?」
「あいにく」
キムラスカの王女と名乗って、けれど王族扱いは不要と最初に言い切った彼女がソファに優雅にくつろいだまま、笑う。それがかたちだけのものとなぜだか分かって、けれど彼の感情は揺らぎもしなかった。

◇◆◇◆◇◆

記憶障害、というのだそうだ。
過去の何ひとつ忘れきった彼に深刻な顔でそう告げたのは、どうやら以前よほど親しくしていたらしい赤毛の青年だった。外的、あるいは心理的なショックにより生命維持に関わらないすべてを一時的に思い出せなくなっているのだと。おそらく今回彼を襲ったそれはそう長期にわたるものではないと、長身の軍人が落ち着いたというよりは感情を読ませない笑みに似たものを浮かべて説明した。
それを聞いて、ああ、これにはそんな名前が付けられているのかとなぜかそんなことに納得して、
それ以降矢継ぎ早な会話のやり取りは、覚えているものやけに薄っぺらくしか頭に残っていないあたり、たぶん相当動揺していたのだろうと、思う。

◇◆◇◆◇◆

「……あまり焦っていませんのね」
「そうかい?」
窓から差し込む月光が今この部屋の灯りのすべてで、それを背負っている彼の顔は果たして見えているのかいないのか。ほつりとささやくようなそれに苦笑を浮かべたなら、そう見えますわと当たり前のように声が返る。
「焦ってはいないけれど、……そうですわね。言ってみれば虚ろな感じがしますわ」
「虚ろ……」
やわらかい印象の声、やわらかい印象の表情。決して彼を傷付ける意図のないと分かる素直な声が告げるので、口の中でくり返して小首をかしげてみる。
……そうなのだろうか。
思ったよりも動揺が小さいと思うのも、そう分析する余裕があることも、今やけに世界が遠いような気がするのも、それでいてひどく落ち着かない感じに始終そわそわしているのも。まとめるならそれは、彼女が指摘する「虚ろ」な状態なのだろうか。
「あなたが浮かべている笑みが、いつもより演技のように見えるのです。無理をしているわけではなくて、そういうこととは根本的に違って、ただ自分にさえ演技をしているように見えますわ」
「こいつは手厳しいな」
「ほら、そうやって笑う。……見て嫌なものではないのですけれど、無理を、しているようで」
芯に強いものがある、けれどやわらかな声は今も降る月光のように熱を持たない。普段の彼女を、といっても記憶を失った現状からすれば参考になるかどうかも怪しいけれど、昼間の彼女を仮に太陽と例えるなら、今ここにいるのは月だろう。
――女性はいろいろな面を持つものだ。
脳裏にはじけたのはきっとそんな文句で、けれど手繰ろうとすればそれは後頭部を締め上げるような鈍痛を運んでくる。
痛みに思わず顔をしかめたのが見えたはずだけれど、果たして彼女は何を思ったものか。

◇◆◇◆◇◆

「不安ですの?」
まっすぐな声が月光のように熱もなく降ってくる。見ればいつか彼女はすぐそばに立っていて、あぐらをかくことで逆転した身長差を良いことに、小さな両手が羽根のように頬を包んでいる。
「そりゃあ……何も覚えていなけりゃ、さすがに、」
つぶやくような不明瞭な返事も、こうしてとらわれていればきっと伝わってしまう。
それを証明するように彼女は笑って、なぜだか笑って、
「安心してくださいな」
白々と降る月光に似た笑みは、間近で見てもやはり昼間の彼女とはまるで違って、
「記憶がどうでもかまわないのです。あなたの居場所はちゃんとあります、なくなったりしませんわ……だから、安心してください」
熱のない、けれどやさしい声は……ああ、後頭部を抉るように何かを思い出させるようで、
「そう……か……?」
――信じてもいいのかと、声にも出せないそれは。
確かに彼女のいうとおり、不安から生まれたのだろう。自覚の前に彼を縛って、おそらくすべての余裕をさらっていたのだろう。
その証拠に、あれほど遠かったすべての感覚が。
今この瞬間から、まるで押し寄せるかのように、

「記憶があってもなくても、ガイはガイですわ。不安になることも、それを感じないためにわざと心を遠ざける必要も、どこにもありません」
「はは……ずいぶん高く買われたもんだな」
小さく返したのは、きっと意地だった。言葉ひとつで馬鹿なくらいに安堵してしまった自分に対しての、きっと揶揄だった。
負の感情なんてどこにもないことは、口に出した自分が一番よく分かっていたけれど。
「だって、それがガイですから」
言い切られてしまえば、それはもう、笑うしかなくて。
「……ありがとう」
ぽろりと感謝の気持ちがこぼれてしまったのは、
きっと、

閉じたまぶたさえ通り抜けて、間近い月光はきっと今彼に降りそそいでいた。これからは月を見ればこの少女を連想することになるなあと、そんな間抜けなことをふと思っていた。
水の紗の向こうの月の光よりも、もっとずっと身近に月光を見つけたと。
なぜだか誇らしく、思って。

◇◆◇◆◇◆

――そういえば、の声は結局何をしにきたのか部屋向こうに金髪が消える直前。
「あなたの女性恐怖症って、本当に過去の記憶が関係していましたのね」
……そのつぶやきは聞かなかったことにしよう、となぜだか今も彼を襲う鈍痛が、

告げる。

―― End ――
2007/07/12UP
濡れ月下 / I・RO・HA goto_ジャンル・CP混合_
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固然 [濡れ月下]
[最終修正 - 2024/06/17-13:00]