振り向いてくれない真紅は、
男は今どんな表情を浮かべているのだろう。
「……おい」
低く低く、地を這うような声がする。それが目の前の男の発する自分に向けての問いかけだと、一拍おいて気付いて――彼女はぱちくりと瞬いた。
「何?」
向けられているのは声と背。たぶん不機嫌なのだと思うけれど、ここしばらく眺めてきたこの男は基本的にいつも不機嫌で、だから今の不機嫌がどこまで本当に不機嫌なのか、いまいちつかみにくい、実際につかめていない。
そもそも自分のせいで男が不機嫌になったなんて、なんだか現実味がなくて。
だからつぶやいたなら、盛大に肩をすくめられた。わざとらしい大げさなため息も、ちゃんと耳に届いた。
そして再びの地を這うような、けれど今度のこれは怒りとか不機嫌とかよりも疲れをにじませた声が、
「何だって俺のあとをつけやがるんだ……」
あるいは嘆くようなうめきは、けれど彼女に向けてというよりもひとりごとに近いように聞こえて、彼女はますます首をかしげる。
ある日、記憶を失った。
原因と思われる事件なり事故なりは、どうやら周囲の反応から想像するに、それに相当する何かがあったのは確かだろうけれど。失った記憶の中にそれはまぎれてしまって今の彼女にはまるで思い出すことができない。誰かに訊ねて、明確にそれを知りたいとも思わない。
ただ、確かなことは。
落ち着いていると評されさすがマリアだと感心され、その実、表に出すことさえできない不安に実のところ身体の芯まで心の奥まで絡め取られていることと。そんな自分をいやになるくらい冷静に把握している自分の存在と。
あとひとつ。
何かを言いたそうな、逆にまるで無関心な。そんな真紅の目を持つ細身の男に、なぜか絶対的な信頼を置いてそれを疑うこともできない。そんな、認識。
「ついてくるな」
「どこへ行くつもりなの?」
「……訊いてどうする」
「答えてくれたら教えてあげる」
理由は分からない、ただそれが正しいのだとなぜか思った。思ったから思ったままに、ふいとどこかに姿を消そうとする男のあとを追った。
……変ね、おかしいわ。
心の内で疑問の声を上げる自分がいるのに、そんな自分を無視して口は勝手に言葉をつむぐ。
「喧嘩売ってるのか、お前は」
「そんなつもりはないけど」
振り向かない真紅が振り返ることを期待して、そのくせ怒らせるような言葉ばかりをつむぎ出す。
リセットされてしまった記憶の中で、はじめて交わす会話らしい会話。内容がない、雰囲気はどこまでも険悪なそれが、それなのになぜか心に嬉しい。真紅が自分を捉えていないことを知りながら淋しがりながら、相も変わらず背を向けられ、つまりはやんわりとであれ拒絶されているというのに。
会話を交わしてくれる、それだけで、自分の存在を認めてもらっているような感じがして。
――ねえ、どこへ行くの。
――あなたは私を置いて、どこに行こうというの。
自分勝手な言葉があふれそうになって、それに気づいてぐっと言葉を呑み下す。
相変わらず振り向いてくれない真紅は、男は今どんな表情を浮かべているのだろう。分からない、それは不安だけれど、こうして喧嘩腰の会話を交わす今その歩みが止まっている。心底不安でもたったその一点で、ほんの少し気は軽い。嬉しい。
記憶を失った、過去を忘れた。
呼ばれるまで自分の名を知らなくて、実のところ名乗ってもらえない上に誰からも名前を呼ばれていない男の名を、こんなにも気になる男の名を、彼女は思い出せない。こうして目にするその外見以上に、かわす会話以上に、深く男のことを知らない。
知りたいけれど、訊ねることはなぜかためらわれた。喧嘩腰の言葉をつむぐ口は、いくら訊ねようと開いたところで願う問いかけを音にしてくれない。
――ねえ、あなたは誰。
――私はあなたに迷惑なの。
あえかな喜びに呑み下したはずの言葉があふれそうになって、本当に訊ねたいことは相変わらず言葉にならなくて、やりきれなくてもやもやする。
言いたいことがある、訊きたいことがある、伝えたいことがある。
それなのに、それなのに。
――ねえ、待って。
――置いていかないで、私を連れていって。
――どこでもいい、どこまでだってついていく。
――私を、一人にしないで。
自分勝手な心が、呑み下した分押さえつけた分どんどん大きくなって勢いを増して。立ち止まっていてくれる男に浮かんだあえかな喜びもかき消すように、不安は苛立ちはどんどん膨らんでいくばかり。
それが自分勝手だと、つくだけの分別が恨めしかった。どこまでの勝手が許された関係なのか、覚えていないのが悔しかった。ひと一人縛り付けようとする自分の勝手さに涙さえ浮かびそうになる。そんな彼女に気付かない男を糾弾しようとする心が、ああ、なんて浅ましいのだろうと。
ループする思考、大きくなるばかりの負の感情。
今、男が背を向けていて良かった、真紅が自分をとらえていなくて良かった。彼女の思考がほつりとつぶやく。こんな姿を見られなくて良かった、浅ましい思考に悶えるしかないこの姿を、見られることがなくて。
ああ、良かったと。
泥沼にもがく思考の片隅が、心底安堵して。
けれど。
黙っている、黙り続けていることで、男が歩きだしてしまえば。黙っているということは用がないのだろと、判断されてしまえば、それが分かっていても。
――待って、とはいえない。
男を縛る自由は、たぶんない。元は仮にあったとしても、すべての記憶がない今、その資格だって失くしている。
そうと分かる、それが分かる。分かるからこそ苦しくて淋しくて、哀しくて悔しくて。
――そばに、いたいの。
たった一言甘えの台詞を吐くことのできない自分が、情けなくて。
男が、そして長く息を吐き出した。最後まで振り向かない真紅は果たしてどんな色を浮かべているのだろう。分からない、分からないけれど、
「……あとをついてくるな」
それは絶対だとくり返される言葉。
ふと手が持ち上がって、それは髪につっこまれるとがりがりと頭をかきむしる。
「いちいち振り向かせるな」
それが何を意味するのか、彼女にはにわかに理解できなくてただ混乱にかまけている場合ではないと、いつの間にかうつむけていた顔を上げる。そのタイミングを、別にはかったわけでもないだろうに。
「…………っ、」
男が何かを言いかけて、けれど黙ってしまった。髪から引き抜かれた手が、何度か空を握るのが見えた。
そして。
頑固に前を見すえた真紅が、本当に絶対に意地でも彼女を振り向かなかった真紅が、真紅だけはまっすぐにきっと前を見つめたまま。
ただ、無言で。
手が、男の手が彼女にさしのべられる。
うしろはだめだと拒絶しながら、――けれど横ならかまわないと。
きっとそんな意図で、
手が、
