「たかが」なんてつく他愛のないことが。
どれほど希少なのか、知っていたはずなのに。
「あの、アルベルさん……シチュー、作ったんです。召し上がりません、か……?」
ひどく既視感をあおるやけにおどおどとした態度は、だからといって見ていて気持ちのいいものではなかった。言葉の内容にではなくそこに反応を忘れていなら、おどおどとしながら少しだけ嬉しそうだったその顔から、すっと嬉しさだけが消えていく。
「すみません、差し出がましいことを……あの、」
「……阿呆」
顔を合わせて大して経っていない一行の中で、特に関わった時間の浅い間柄。けれどその短い時間は、それでもゼロと同じではなかったのだと。短いなりに、互いの反応をうかがって学んでいたのだと。いや、むしろこの女の方が。短い時間を時間以上に、勝手に彼に歩み寄っていたのだと。いてくれたのだと。
そんなもの、知りたくもなかったのに。
彼の反応の鈍さを拒否と受け取る女に、自分勝手な苛立ちがわき起こる。
「よこせ」
「え、……はっ、はい!」
うなだれていたからこそたった一言にぱっと顔を明るくした女に、彼の心の奥が何か動きそうになる。
ソフィアが記憶を失った。
――いや、口と頭が回るあの青髪の女参謀によれば、一時的に過去の記憶を封じた状態、らしい。
封じただけなら、封じられた状態なら。すぐに戻るのかと思っていた。きっと思ったそれは顔に出ていて、告げた顔は冷酷をよそおって笑う。
――戻る可能性は高いわ。でも、絶対とは言えない。いつ戻るかも分からない。
言われても意味が分からなかった。けれどそれは、とうの本人と面を突きあわせたならいやでも理解しないでは、いられなかった。
「マリアさんとネルさんが、作ってみたらってすすめてくれたんです。わたし、前はお料理、得意だったんですよね?」
「……そうだな」
ああ、これも既視感だとアルベルは薄く息を吐く。頬を染めて嬉しそうに心配そうに、そっと差し出されるシチュー皿。記憶を失ってはじめて作ったのだろうそれは、それでも見た目に料理屋顔なしの出来を誇る。
本当のハジメマシテのときに、その直後に女が作ったのもひょっとしたらシチューだったかもしれない。
もはや忘却の彼方にあったそれをとりあえず脇に置いて、差し出されたスプーンを受け取って、一口。
……ああ、本当に既視感だ。と。
「お味はいかがですか?」
「……悪くはねえ」
心配顔に一挙手一投足見守る女に、ため息のように告げる。
短くても、過ごした時間はゼロではなかった。
ゼロではなかった時間で、女は彼に歩み寄っていた。
歩み寄ってくれていた。
知っていた、けれど分かっていなかった。付き合いの時間が短いからと、他人――たとえば女の幼馴染の青髪のような、そんな衝撃はないものと思っていた。思い込んでいた、いっそ信じていた。
大嘘だった。
「たかが」なんてつく他愛のないことが。どれほど希少なのか、知っていたはずなのに。何度でもくり返す自分は、本当はどこまでも分かっていないのだと思う。
大きくカットされた野菜、まろやかでまろやかすぎてどこかもの足りない味付け。決してそれは悪くない味だけれど、彼の好みとは少し、ほんの少し――違う。料理を作った、シチューを作った、そう告げられて彼の想像した「ソフィアのシチュー」とこれは、違う。
味のよしあしではなく、ただ違う。
そして、たったそんなことで彼女が記憶を失っているのだと、今ここにいる「ソフィア」は数日前の「ソフィア」とは別人なのだと、ああ、本当にこんなことで気付いて、気付かされて、気付かずにいられない。
出会った当初、本当に最初の料理がシチューではなかったにしろ、初期のころに出されたのは確かにこんなシチューだった。お口に合いますかと訊かれて、悪くないとその時も答えた。
けれど多分女はそれに満足しなかった。
そうしろと言ったことは一度としてなかったのに、少しずつ彼の好みを探って、彼の好みに合わせて少しずつ改良していった。
そう、だから「違う」のだ。
きっと多分、すべてに関して誰もが――以前の「ソフィア」を知る誰もが同じようでいて違う女に、その行動のたびにその違いを思い知る。本質は同じ、けれど記憶という経験がない時点で違う人間なのだと、勝手に期待した「ソフィア」と別人だと勝手に思い知って、勝手に失望する。
それは、
……それは。
「お口に……合いませんか?」
「悪くない、と言っただろう」
多分彼の食いつきの悪さに、いつかしょんぼりとしょげている女。その反応だけで彼をこれほど落ち着かない気分にさせるのは女だけなのに、きっと本人はそれを知らない。
「……おい、」
いらいらした。知っているくせに分かっていない自分にいらいらした。勝手な期待を押し付けられて、それに応えようと懸命になっている女にいらいらした。
すべてが勝手だと分かっているからこそ、そのいらいらはなお激しく。
「突っ立ってんな、……おまえも、」
「え?」
気がついたら言葉が口から出ている。何を言うつもりなのか自分でも分からないくせに出た言葉は、けれどその後までは勝手に出てくれないから、必死でつなげようと続けようと、スプーンを握りしめて彼は止まりかけた頭を何とか回す。
――何を言おうとした。
――何を言えばいい。
――味が悪いわけではない、そう、味は悪くない。
――勝手に想像したものと違うだけで、女が悪いわけではない、勝手な想像と何が違ったとしても。
「アルベルさん?」
「――座れ」
彼の一挙手一投足、何気ない言葉、そんな反応すべてから学習しようとする、そんなところはまるで変わらない女に命じる。ああそうか、俺はそう言いたかったのか、彼の心がなんだか納得する。
「そんなとこに突っ立ってんな、気が散る。座れ。……そもそもおまえの作った料理だろう、喰わねえのか」
怯えさせるつもりは微塵もない、けれど焦った結果余裕のない結果きっとにらみつけてしまったその向こうで。
途惑うばかりの女は、一瞬怯えた顔を見せて。
けれどもそして、何を内包しているのかにこりと微笑みを浮かべた。
