まっすぐな目が、未来そのものを見据えるような目がまっすぐなままで。
何があってもどこまでも、まっすぐなままで。

―― 冒進 [日暮れ雪]

「ノエル」
どこか頼りなげな細い背中につぶやくように声をかけた。宿屋の窓から外を、どうやら空を眺めていたらしい彼女が、決して大きくはないその声に――けれどゆるりと振り向く。
「……私、ですか……?」
困ったような顔、口元にはかすかな笑み。笑うつもりはないけれど笑っているとき特有の、どこかひずんだ印象の笑み。
たぶん似たような種類の笑みを浮かべている自覚があったけれど、きっともう少し不自然ではない自負があった。そんな笑みを浮かべた彼は、胸元に手を当てて軽く頭を下げてみせる。
「気分転換に散歩でもどうだい? ……ちょっと案内したいところがあるんだ」
「え、ああ……はい。お願いします」
今度は幾分か、本物らしく。微笑む彼女に、少しだけ救われた気分になった。

「……何か思い出したかい?」
「いいえ。まだ、何も……すみません。思い出そうとすると頭痛が……」
「謝ることじゃないさ。……ルークもそう言ってたけど、あいつのとノエルのと同じに見ていいもんかね……。
……まあ、ともあれ。無理することはないよ」
「そう、ですか……? みなさんおやさしくて、私、申し訳なくて……」
「いいっていいって。みんな好きでやってることさ」
――どのみちあんたの記憶が戻ってアルビオール操縦できるようになってくれなけりゃ、どこにも行けないんだしな。
それが事実でも、告げたところで無駄に焦らせるしかない意味がないことを知っているから。彼はただ微笑んで、雪道をエスコートする。

銀世界ケテルブルグは、白。
天から舞い落ちる白い欠片が、自然も人工物もすべてすべてを覆っていく。

◇◆◇◆◇◆

目覚めたとき、彼女から記憶の一切が失われていた。

誰の顔も名前も、覚えていない。
自分の名前すら、それは同じ。
ただし言葉は通じる、話せる記せる。
喜怒哀楽があって、歩くことも。

――だったら彼女は本物のノエルで、そして本物の記憶喪失ですね。
自分を揶揄するように断じた赤い目に眼鏡の大佐は、ちょっと医学書を確認してきますと姿を消した。そうなると、パーティ中次に頼りになるのはガイで。
――なんでおまえ、そんなに落ち着いてしかも詳しいんだ?
ふしぎそうに、心底ふしぎそうに首をかしげる赤毛の青年に、ただ苦笑することしかできない。

◇◆◇◆◇◆

「あの、……ええと、」
「ああ、名前まだ覚えてないかな? ガイだ」
「ガイ、さん……あの、どちらへ……?」
言葉の裏に少しだけ警戒する色があって、小首をかしげながら彼は次の瞬間に納得していた。彼が案内するのはカジノまで完備した華やかな街の中心部と反対方向、淋しいさびしい郊外だ。彼女が女性で、そして自分が男なら、まあこれくらいの警戒は普通レベルだろう。
いまだに克服しきっていない女性恐怖症を抱えている、彼でなければ。
納得して苦笑して、けれどもまあ、イチから十まで自分で説明するのも情けなくて気恥ずかしくて。目当てのものは決して小さくはなくて、もうすぐそこの角を曲がりさえすれば見えるはずだったから。

誤解を解く手間を惜しんで、肩をすくめてみせた。
先ほどまで浮かんでいた笑みがほとんど消えて、途惑いと警戒で足を止めた彼女に気付かないふりで、数歩先に立って大げさに腕全体で示してみせる。
「見せたいものがあるって言ったろう? これ、だよ」
「……これ?」
いぶかしそうに寄った彼女の眉が、木々の向こうを示す彼の腕を追ってその延長線上をたどって、
「……っ」
「ああ、さすがに目が良いな。そうそう、向こうにあるあれ」
見開かれた目は純粋にまっすぐ前を見ていて、その目は確かにアルビオールを駆るときの彼女の、恐ろしいほどに澄み切った怖いほどに前を、前だけを見る目で。
「……ガイさん……」
「どうかな?」

わななくような声に口元は笑みを形作っている。けれどそんなもの、飛空挺に吸い寄せられた彼女の目にはまるで入っていないと知っていた。

◇◆◇◆◇◆

気が付けば彼の人生の半分以上を過ごした、あの天空にいちばん近いだろう屋敷に雇われる者たちは、ある意味記憶喪失のエキスパートだらけだった。もちろんそれは、レプリカなどとは露とも疑われず、赤子同然の何も知らない状態で屋敷にやってきた赤毛の主人がその理由以外の何者でもない。
彼もまたその一員で、むしろ立場上「彼」にいちばんに近い位置にいて、主人と似たような幼い身空でお抱え医師たちが持ち込んだ難しい医学書専門書を読み解き理解しなければならなかった。目の前の実物と数少ない症例を比較して、記憶を取り戻すための手段をひとつでも多く試みなければならなかった。――ただし、あくまでも主人の安全を最優先として。

まあ、こうして記憶を失った女性が目の前にいるとあれば、あれらはほろ苦いくるしい思い出ではなくて、今も役立ってくれる貴重な経験ということになるけれど。

◇◆◇◆◇◆

「どうだい? ……ああ、頭痛がひどいようなら宿まで送るよ」
雪避けの布に包まれた、知らなければ何がなんだか分からない姿を遠目に見ただけでひどく動揺した彼女は、細い身体を引きずるようにしてそれでも今アルビオールをすぐ目の前にしている。先ほどからずっとこめかみのあたりを右手で押さえていて、それは「思い出そうとすると頭痛に襲われる」からだろう。
好きで記憶を失う人間はいないと思う。――本当に右も左も分からない状況に放り込まれることを、心底望む人間はいないはずだ。よしんば好きで失うことができる程度の記憶が存在するとして、彼の知る彼女は決してそんな記憶を良しとはしないはずで。
つまりこれは、ある種のいじめに違いないと、彼は知っているけれど。

あのまっすぐな目が、未来そのものを見据えるような目がいまもまっすぐなままで。
何があってもどこまでも、まっすぐなままで。
悔しいような切ないような、憧憬にも似た気持ちがどこからくるものかうすうすは察しているけれど。痛ましいような誇らしいような、彼女と関わることで生まれるこのこころがどこから生まれてくるかはうすうす察しているけれど。そうした苦い感情のあとに、不意にわき起こるあたたかいこの感情を。その呼び名を出どころを、うすうす察してはいる、けれど。

にらむでもない、ただ見据える目に、こんな自分が相応しくないことも。声に出して願ったとして、その目に自分が映るのはせめてほんの一瞬だということも。
たぶんすべて、分かっているから。

◇◆◇◆◇◆

「……ノエル?」
「ええ、ガイさん……大丈夫、です。中へ、入りましょう。きっと、私……何か、せめてほんのわずかでも……」
そうしてこめかみを押さえたまま、痛々しい、けれどまっすぐな笑みが彼女に浮かんだから。きっと痛みに弱々しくなって、けれどそれでもこれは本物の笑顔だと直感したから。
「急ぐ必要はないんだ。今日はここまで、中に入るのはまた明日にでも」
「で、も……」
「真っ青な顔で微笑まれると、無茶させられなくなるよ」
できれば自分の今のこれは本物であってほしい、自分でも分からない、多分笑顔で言っただろう言えただろうその発言に。ぽかんとした彼女の顔が、やがてそっぽを向かれて。やわらかな金髪の向こうに見えた気がしたその耳が、まるで染まったように見えたのは。

きっといつか暮れはじめていた雪の中の夕焼けのせいだろうと。
それ以上つきつめることをあきらめて、さあもう帰ろうと彼はゆるく手をさし出した。

―― End ――
2007/07/23UP
日暮れ雪 / I・RO・HA goto_ジャンル・CP混合_
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冒進 [日暮れ雪]
[最終修正 - 2024/06/17-13:01]