どこまでも凶悪で、なによりも純粋で真っすぐな。
――それは燃えるような、紅。
もてあましたくなる熱にぼんやりとしながら、荒れた息が整うのを待ちながら。ふと自分の手首に赤く残る、強く鷲掴まれた痕をなんとなく見下ろしていた。
こころの中を頭の中を、いろいろなことがものすごい勢いで行き交っているような気がするのに、その一つひとつがまるでつかまえられないから、結果的に何も考えられない。そんな何ともいえない虚無感に、ただぼんやりしていた。
口元が歪んでそれは笑みとよく似ていて、けれどそれが何を示すものか。
分からなかったし、分かりたいとは思わない。
脇にある気配がそのうちもぞりと身じろぎした。どうやら彼女よりも先に息を整えたらしい、それまで仰向けになっていたのが半身をうって、意外と広い背を彼女に向ける。
「……何考えてやがる」
「…………え……?」
そのまま投げつけられたつぶやきの意味が分からなくて、ゆっくり瞬いてから小首をかしげた。身体前面のそこかしこに刻まれた傷痕をまるで知らないような背は、彼が剣士だと証明するようだ。……埒も明かないそんな意味のない思考の向こう、背はどうやら丸くなっていて、まるですねているようにも見える。
――いや、多分。事実すねているのだろう。
――そしてきっと落ち込んでいる。
ふと分かったけれど、その根拠が見えない。どうでもいいと知りながら、どうでもいいくせにその理由をぼんやり探りながら、彼女は、ネルはまたひとつゆっくり瞬く。
数瞬前を、覚えている。熱に浮かされたようにはっきりしない記憶ながら、それが妄想ではなくて事実過去にあったことなのだとこの頭は知っている。
間近い紅を、
その紅が孕んだ危険なほどの熱を、
自分だけが紅の中にいる、そう確信した瞬間のあの陶酔感を、
それらの瞬間を覚えている。記憶だけではなくて、こうして手首に残る痕をはじめ、身体を確かめたならきっとそこかしこに咲いているのだろう赤い華が。たった数瞬前のことを現実に証明する。
――けれど、だからこそ。
彼が問う、その意味も。
分からない、わけではない。
「……なんだい、それってあんたの方が後悔してるのかい?」
笑みを含んだその言葉に、びくりとふるえた背は果たして何を思ったのか。
「後悔しても知らないって言ったのは、あんただろう??」
畳みかけるように続けたそれは、熱のはじめに男自身がつぶやいた台詞で。まさか忘れているはずもないだろう、ああ、だからこそ背がますます丸くなる。
「俺の質問は無視か」
「いいや、答えてると思うけどね」
意地悪だと自覚のある言葉に丸くなった背がさらにすねた。たったそれだけに笑みがさらに深くなる。すぐそこの肌に触れたがってのばそうとする手をぎりぎりで凍らせて、どうやら本当に落ち込んでいるらしい男がこちらを向くのを、ただ待つことにする。
アルベルが、記憶を失くした。
そうと知って、けれどネルは自分でも意外なほどに大して動揺しなかった。
恋人なんて甘い言葉を当てはめるには苦すぎるけれど、他に当てはまる単語も見当たらない。そんな関係だった。それなのにネルは、アルベルの身に起こったことを知った瞬間、けれど自分でも意外なほどに大して動揺しなかった。
動揺しなくて、動揺しないまま。何かを思い出そうとするたびにどうやら激しい頭痛に襲われる彼に、記憶を失くすまでとまるで変わりなく接しながら。戦う以外にまるで脳のない男の世話を、今までとまるで変わらないままに焼き続けながら。
けれど今までと変わりないつもりだったのに、比べるもののない当の記憶を失くしたアルベルには、それはそうと映らなかったようで。
「前のあんたと今のあんた。あたしがどっちを見てるのか……それで、結局分かったのかい?」
記憶を失くして、拠りどころをなくして。ささくれ立った彼の神経を無遠慮に逆なでたつもりはないし、今もないけれど。記憶があろうがなかろうが、どちらの男にだって同じように接していたつもりだったけれど。
当のネル本人にはそうでも、世話を焼かれる男にとって、それはそうと映らなかったらしい。
数刻前、何のきっかけか限界を突破した紅に閉じ込められて、ぎらぎらする目が凶悪につぶやいた言葉が脳裏に蘇る。
――お前は、俺を見てるのか。
――それとも、俺の向こうに俺じゃない俺を見てるんじゃねえのか。
今にも喰い殺そうとするようなあの危険な紅は、けれど追い詰められた獣のそれだった。性別が違う以上身体の構造が違う以上、どうしたって覆すことのできない腕力に訴えられて、力でねじ伏せてくる紅はまるで血みどろでのた打ち回る獣のようだった。
同情は、しない。
あれは、だから決して同情ではない。
両手首をひとまとめにされてベッドに縫い付けられて、自分の中の女は警鐘を鳴らしたけれど、かまわずに紅をひたと見すえた。
――それで、だからどうするんだい。
――こんなんで、あたしの心があんたに分かるのかい?
煽るだけだと分かっていたその言葉が、事実噛み付くような熱に化けて襲いかかる。ぎらぎらした紅は内面の熱をもてあますように、ただ不吉に細められる。
――俺が、決める。
――後悔しても知らねえからな。
そうして熱が本格的に降りかかって、最初から抵抗しないまま結局抵抗しないまま、ただ視界を閉ざした。
「別に、あんたに愛されてたつもりはないよ。あたしも多分、あんたを愛してたわけじゃない。ただ、必要とされて嬉しかったし、あたしにあんたが必要だった。
前は、そうさ。
それは、でも……今だって同じじゃないのかい?」
少しすねただけが自己嫌悪にまで発展して、それを後押しした自分を知っていたから、彼女は黙ってしまった背につぶやいた。彼女自身は後悔をしていない、するつもりはなかったし、結局今もひとかけらだってそんなつもりはない。何を言えばそれが伝わるのか、先ほど抱いたあのもやもやを整理するつもりで、ぽつぽつとつぶやきを続ける。
「あんたはさっきあたしを欲しがった。同情じゃなくて、あたしはそんなあんたが愛しいと思った。
いやじゃなかったんだ。そこだけは、断言しといたげるさ」
手に残る痕、握りつぶされるかもと思わず危惧したあの痛み。誇るつもりはないけれど、それを見て思うのは、こそばゆいようなこれは……なんと言いあらわせばいのだろう。果たしてどこから来るものなのだろう。
それに、続けながらただ口元に浮かぶ笑みの意味は、知らない。知らないし、知りたいとは思わない。
「あんた本当は、あたしがどうだって関係ないだろう? 記憶を失う前のあんたと、今の何も覚えてないあんたと。あたしがどっちを見ていても、関係ないだろう。
前のあんたと今のあんた。同じ人間なのかそれとも別人なのか、……あんたの中で、折り合いはついたかい?」
そして背中がもぞりと動いた。
「……思い出せとは言わないのか、てめえは」
低く低く獣のうなるような声に、笑みが深くなる。
「あたしが言う前にみんなが散々言ってるじゃないか。言って戻るもんならひょっとして試すかもしれないけど、そうじゃないなんて分かりきってる。
意味がないことを嫌うのは、何もあんたの専売特許じゃないよ」
かたくなに振り向かない背を、ただ見つめる。
「……てめえは俺に、何を望んでるんだ」
「言っただろう? あんたはあたしを愛してなかったし、あたしもあんたを愛してなかったって。ただ……互いに執着してただけだ、って」
きっとあと少し。思いながら見つめながら、手に残る赤い痕にくちびるを触れさせて、
「だからどっちでもあるのさ。
あんたはあんただし、敵と知り合ってあたしが結局肌を許したあんたもあんただ。思い出してくれなくてかまわないわけじゃないし、無理に思い出してほしいわけでもない」
問答にも似た言葉にごそりもぞりと背は動く。もう一押しで紅は振り返る。
根拠はない、けれど分かったからネルは笑った。自分の感情さえ推し量れない自分自身を、そうしながら嗤った。
「あんたの中で、折り合いはついたかい……?」
今はまだ、背を向けている。けれどその熱を知っている、どうしようもなくもてあますような熱は今も彼女の身体の中に潜んでいる。肌を通して移った熱は、今は少し身をひそめているだけで、つつけばすぐにまた、どうしようもなくなるに決まっている。
そういうものだった、そういうものでしかない。
「ねえ、アルベル」
そして、果たして。
どこまでも凶悪で、なによりも純粋で真っすぐな。
――それは燃えるような、紅。
