記憶を、失くした。すべてを忘れ去った。
だから、だろうか。

―― 割開 [静寂に呑まれ]

「ありがとう、お疲れさま。……助かったわ」
「……別に」
買出しに、付き合った。部屋を出ようとしたところで、部屋から逃げようとしたところで、運悪く女と鉢合わせをして思わず固まったところで、ついて来いと命じられた。不要なものを売り払って必要なものを買い込む、重さは大したことないけれど持ち歩くにはかさばると宣言されたそれらはまったくそのとおりで、むしろ女の細腕には荷が勝ちすぎているようで、女にしてみれば確かに誰かを引っ張り出したいだろうなとそんなことを思った。
「のどでも渇かない? 何か持ってくるわ」
細い腕、細い身体。言うことはいちいち癇に障ってしかたがないのに、存在そのものを嫌おうという意思だけは沸いてこない。偉そうなものいいには閉口するものの、言う中身はいちいちもっともだ。

女の名前は、何といったか。
思い出そうとして、けれど。こめかみを抉るように、目の奥に何かが突き刺さるように。ずきりと激痛が走って息が止まる。

◇◆◇◆◇◆

記憶を、失くした。
それはどうやら滅多なことではないらしく、仲間だとかいう連中がなにやら周囲で騒いでいるところからしか、彼の記憶は存在しない。特定の何かとか特定の誰かとかそんな器用な忘れ方ではなく、ああ、そうだ、記憶を失くしたというよりは気付いた時には何もかもを忘れ去っていた。

記憶を、失くした。すべてを忘れ去った。
だから、だろうか。
不安定な何かの衝動に、こうして突き動かされてその衝動に抗うことができないのは。

◇◆◇◆◇◆

「ある、べる……?」
「あ……」
控えめに、あるいは戸惑うように。呼ばれた名が自分のものだと理解するのに、数拍が必要だった。名を呼ばれたと理解した瞬間、それを呼んだ女が至近距離にいて、どうやら自分の腕が抱きしめていて、自分の心さえ自分で追うことのできない様になんだかひどく動揺する。
「飲みものを取ってくるわ。……すぐに戻るから」
「あ、あ……分かった」
そういえば、似たようなことをつい先ほど聞いたはずだ。呆れたようにつぶやく自分が自分の中にいて、そんな彼の中の彼を知らない女は軽く身じろぎする。それがはなせという意思表示だとそこでようやく思い当たって、腕の中に閉じ込めていた存在を解放する。
「まったく、……かわいくて仕方ないわ」
「な!?」
言われた台詞があまりにもあまりのものでぎょっとして顔を上げたなら、今度こそ部屋から出て行く女の細い腕が、白い腕がひらひらと振られていた。

記憶を、失くした。すべてを忘れ去った。
だから、だろうか。
ほぼ無意識のうちに、少なくともそうと意図した覚えはないのに。勝手に動いた右手をまじまじと見下ろす。握って、開いて。わきわきと今は思い通りに動くけれど、そもそも勝手に動く癖でもあったのだろうか。――火傷の痕が証明する、ぎごちなくとしか動かない左腕とはまったく逆に。
「……んなわけねえよな」
一人ごちてみるけれど、それを証明する根拠はどこにもない。通常なら過去の記憶がその根拠になるだろうけれど、今の彼はそれを失っている。
舌打ちをしてみた。
「厄介だな……」
勝手に動いていた腕、相手が見知った女だから良かったようなものの。まさかとは思うけれど仮に自分に抱きつき癖があるとしたなら、おちおち外を歩くこともできない。
いや、そんな厄介な癖があるなら周囲に迷惑をかけるわけで、誰かしらがそうと告げているはずだし、いくら仲間でも一緒に出歩きたがらないだろう。それに、買出しに出た今までにそんなことはなかったし、記憶のはじまるあたりから探ってみても意識なく身体が動いたなんて先ほどのアレしか思い当たらない。
「……何なんだ……?」
他人には笑い話に違いないことだと自覚しながら、真剣に悩まなければならない自分にうんざりしながら。悩んでも仕方がない種類のことだと頭のどこかに冷静に指摘されながら。
――しかし、けれどそうなると唐突に抱き付いた割に、あの女は騒がなかった。
「……何なんだ……」
うめいてみても、答えはみつからない。

◇◆◇◆◇◆

記憶を失った、自分の名前をはじめすべてをきれいさっぱり忘れ去った。仲間と名乗る数人が寄ってたかってあれこれ好き勝手に主張して、けれどどれがでっちあげでどれが真実か、判断するだけの根拠が見当たらない。
先を急ぐ旅だと聞いた、数日休んで進展がないようなら再び旅に出ると聞いた。自分のせいで数人の足を止めている事実に腹が立って、そんなことにいちいち苛立っても意味がないだろうと呆れられてしまえばそれまでだった。

◇◆◇◆◇◆

「……クソッ」
「悩んでも仕方ないんじゃないの?」
そうしてまたひとつ舌打ちをしたなら、冷静な声が聞こえて。両手に木製のカップを持った女が慎重に歩をすすめてはいと片方を手渡してきて。
「ミックスジュースらしいわ。……まあ、もの足りないかもしれないけど、もうすぐに夕飯だし」
「……ああ」
座ったら? と示されて、腰を下ろしたソファの彼のすぐとなりに青髪の女も当然のように座る。中身は彼と同じだろう木製のカップをどこか嬉しそうにかたむけて、そしてくすりと吐息を漏らす。
「まったく、かわいいわね」
「さっきも言ったな。……俺がか?」
「そうよ。いちいち悩んでて……断言するけど、立場が逆なら絶対に言うわ。考えても意味のないことを悩んでどうする、って」
「俺はそんな男か」
「そんなひとよ」
言い切られて、面白くない。これ以上この話を引きずっても面白くないばかりだろうと、深く息を吐く。
「……さっきは」
「気にしていないわ。……だから、かわいいって言うのよ」
「??」
わけが分からない。
眉を寄せるばかりの彼に、強い翠が笑う。ほとんど干したカップのふちを細い指がなぞって、なぞりながら声が笑う。
「目の前のものがいなくなる。――キミは知らないみたいだけど、キミはそれを怖がっているのよ。知っているから、私は驚かなかったし、そんなキミを知らないから私以外の誰も何も言わない。
――納得した?」
先ほど身を翻した彼女を、無意識につかみとめたのだと。そうしないではいられなかったのだと。自分の無意識を説明されて、それは、

「……なんでそんなことを知ってるんだ」
「だって、キミのことだから」
答えになっていない返答に、女がさらに笑った。自分で言って自分で笑って、世話がねえなと呆れるしかない彼に、ここで不意に名前を呼ばれて何ごとだと顔を向けた彼に、
結局口をつけていないジュースの、甘い味がかすかに広がって。

「かわいいわね、アルベル」
至近距離にささやく女の意図が、見えない。翠の目に揺れる感情が、読めない。
沈黙が、ただただ静かに降り積もる。

ただ、びしりとどこかに亀裂が走ったような気がした。
不快ではないけれど面白くない感情とは、まったく別に。そしてこめかみを抉るように、目の奥に何かが突き刺さるように。

ずきりと激痛が走って息が止まる。

―― End ――
2007/07/30UP
静寂に呑まれ / I・RO・HA goto_ジャンル・CP混合_
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割開 [静寂に呑まれ]
[最終修正 - 2024/06/17-13:01]