ただ静かに流れ行く川のように、
醜いけれど、この、なによりも美しい世界に。

―― 偸生 [忘れるな]

ティア、と呼ばれて振り向いた。それが自分の名前なのだと認識して、誰がそれを呼んだかを考えながら、声の主と想像の主が同じかどうかを確認する。普段ならそんなこと、無意識のうちにすべて終わらせてしまうのだろうけれど。
今の彼女には、それは意識しないとできない種類のことで。
「……るー、く……?」
記憶力に不安はないはずだったけれど、短期間に詰め込んだ知識が果たして正しいものか不安になって、自然口の中でつぶやくようになった声に。視線の先、先ほど彼女を呼んだ青年が淡い笑みを浮かべた。

◇◆◇◆◇◆

ちょっといいかなと連れ出された先は、夕焼けにみごとに染まった空の下。その夕焼け空を写したような色の髪の青年は、ゆったりした大またで彼女とは二歩ほど向こうを先導するように歩く。
――用件は?
そんなふうなことを訊ねるのは無粋ではないかと思うような、ひどく静かな雰囲気と。何か一言でも声に出してしまったなら、ぎりぎりの均衡を保つこの空間が壊れてしまいそうな緊張感いっぱいの錯覚と。何より、他でもないこの彼と同じ時間を、何気ない時間を共有したいという、不意にわき起こったばかばかしい感情とに振り回されるように。
何かを言いたかったけれど、何を言いたいかが分からない。声の出し方さえ忘れてしまったように、どこか焦りさえ浮かぶ中、そんな彼女の気持ちを置き去りにただゆっくりと時間だけが流れる。

「……明日も晴れるかなあ」
ぼそり、聞こえたのはそんな言葉だった。ぐるぐる思い悩んでいたのはそう長い間でもなかったのは実はそれなりに長い間だったのか、夕焼け空は気付かばだんだん青味を増していた。先ほどは空に同化するようだった青年の髪も、今はそう、一見違和感を覚えるほどに今は輪郭をくっきりさせていて。
「あ、ほら。一番星。……あれって一番星だよな?」
「え? ええと……そう、かしら?」
「そーゆーことにしとこーぜ。うん、明日もきっと晴れだよな!」
「そうなのかしら……?」
何気ない会話に小首をかしげたなら、振り返った顔が幼くぶーたれていた。瞬いていたならそれはすぐにそっぽを向いて、どうしたらいいのか分からなくなる。
「……ええと……?」
「いい、別に。……と、ああ、もう夜だよなあ」
声に促されて空を仰いだなら、そう、先ほどまでの赤が嘘のように、周囲は青でいっぱいに占められていて。西の空には少しだけ赤が残っていたけれど、きっとそれもすぐに青に消えるのだと分かった。

◇◆◇◆◇◆

記憶を失った。
特定の何か特定の誰か特定のどこか、そんな部分的なものではなくて、彼女が気付いた時にその過去の記憶はすべてがどこかに消え失せていた。具体的な原因は分からない、根本の解決方法も分からない。それがいつ元に戻るものなのかも、ひょっとしたらずっと戻らないものなのかも。まるで分からない。
すべてが分からなくて混乱する彼女に、焦るなといってくれたのは誰だっただろうか。今の記憶がはじまるあたり、その記憶は混乱のせいなのかずいぶん曖昧で。あれほどありがたかったあの言葉を、けれど誰が言ってくれたのかまるで分からない。

◇◆◇◆◇◆

「……あの、」
「ごめんな、ティア」
「?」
やがて空から赤は消えて、夕焼けの色は青年の髪だけになって、ほつりとつぶやきかけた言葉をさえぎるように、
彼が、謝った。
分からない、意味がわけが分からない。中途半端にかたまっていた手を口元に当ててそんな彼をうかがえば、いつか半身振り返った彼の口元に淡い笑みが浮かんでいる。
「……何、が……?」
「ん。――多分誰より分かってたはずなのに、忘れちまって。だから、謝りたかったんだ」
「何を?」
わけが分からなくてつぶやくように訊ねたら、笑みはますます淡く深くなった。まっすぐ見られているはずなのにどこか遠くを見るような、それはたとえば過去を懐かしむような未来を夢見るような、そんな笑みを浮かべる彼の存在感が、ひどく薄いような気がする。
「ルーク……」
「……ごめん」
ふと風が吹いて、舞った髪に思わず目を閉じて。すぐに見開いた目に彼の姿は見つからないのではないか、そんな不安感を抱いて。
けれどそうではないというように、髪が何か引っかかりを覚えて、見開いた目にはずいぶん間近い距離に彼の姿があった。舞った彼女の髪をやわらかな手櫛でおさえる、淡く笑う彼の姿があった。
「……ごめん、な……?」

謝罪の言葉を何度も口にする彼が。
なぜか哀しくてひどく危うくて、わけが分からない彼女の混乱をあざ笑うように、ゆらり、揺れた視界は。浮かんだ涙のせいだろうと、そんなことだけは冷静に分かるのに。

◇◆◇◆◇◆

気付けば空はすっかり明るさを手放していて。先ほどまで赤かった空は今は青味さえずいぶん薄れて、ただただ暗く、色の分からない世界に変貌していた。彼が一番星と評した星は黒い布に輝く宝石の粒のように明るさを誇っていて、そういえばいつからか浮かんでいた月は女王のように他を圧して頼りない輝きで青く二人を照らしている。
「……何を謝るの……?」
揺れる視界をそのままに、彼を見ているはずなのに空のことがなぜか映る視界で、つぶやいた。あと一歩どちらかが足を踏み出したならといった距離で、彼女の髪にただ触れる彼が相変わらず淡い笑みを浮かべている。

なんだかひどく腹が立った。
腹が立ったから半歩ほど踏み出して、彼の肩口に額をうめる。
「ティア?」
「……ばか」
声が少しだけ跳ね上がって、額で触れたかっちりした身体は多分緊張で固まった。その反応に少しだけしてやったりの気持ちになって、居心地のいい場所を探すように、甘えるように触れただけの額を身じろがせる。
「分からないわ。ちゃんと説明して……何を謝るの」
すべてを忘れて、謝るべきはむしろ彼女の方かもしれないのに。むしろ彼女のほうだと思うのに。
なぜ彼が謝罪の言葉を口にする?

◇◆◇◆◇◆

――記憶障害は、あるいはレプリカと似ているかもしれない。
――そう言われて、そうかもしれないと思って、……ああ、おれティアにすごくひどいことしてるんだなあって、思った。
――だから、ごめん。誰よりおれは知ってたのに、……だからごめん。

ぽつりぽつり、あきらめたようにやがて降ってきたのはそれだけの言葉。それ以上を訊ねても、ひどくゼロに近い距離にある、それを許してくれる赤毛の青年は何も言わない。
抱きつくでも抱きしめるでもない微妙な距離を、肩口に甘える彼女のその髪を、おずおずと手櫛が梳いていく。

それが、なぜか。
――生きていてよかったと。
――生まれてきてくれてありがとうと。
そんな風に、聞こえて。

忘れない、忘れるがはずがない。
深く熱く静かで広い、この心を。この小さな胸いっぱいに、胸からあふれそうになるほどいっぱいに生まれた感情を。今も、今度こそ本格的にあふれそうになっている涙と一緒に。
忘れてごめんなと、こぼすようにただくり返す彼に。

渡したいとは、違う。
ただ、
返したい、と、

――思った。

―― End ――
2007/07/31UP
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偸生 [忘れるな]
[最終修正 - 2024/06/17-13:01]