ここは天界で、神々の世界で、どんな願いだって叶うはずの夢の国のはずなのに。
生者が夢見るほど、ここはそんなに素晴らしいところではなくて、

―― 空際 [近い近い空の向こう]

「アリーシャ、休憩にしないか?」
「ええ、そう、ですね……」
――大丈夫か?
――大丈夫、です。
あたり前にように投げかけられていた言葉が、いつか、別のものに変わっていた。彼がそう訊いてくるのは、いつだって許容量を超えるなにかに彼女が押しつぶされそうなときだった。いつだってそれに対する彼女の返答は決まっていて、だから、彼が学習してあきらめてしまっても仕方がないと思う。
思うけれど、本当は、そんなことではないことにも気付いていた。
明確な境の時期は、知らない。分からない。けれどまったく思い当たらないわけではない、むしろいろいろ思いあたってそのどれだろうと絞るに絞れない。
だって、

「ほら、水」
「ああ、はい。ありがとう」
「次オレも飲むから、栓しないで渡してくれな」
「わかったわ」
移動が前提なのでかたくしめてある栓を、さりげなく気遣われてゆるめて渡された、そんな水筒から一口二口。のどをすべり落ちていくただの水は、美味しいともまずいとも思わなかった。けれどそれでほっと息を吐いたことは事実で、疲れた身体にその水は嬉しいものだったのだろう。
「ルーファス、ありがとう。どうぞ」
「……もういいのか? 水場は近いし、もっと飲んでもいいのに」
「いいえ、もう十分だから」
「そうか」
そんなやりとりで水筒を返して、彼女はふと身体を見下ろす。

◇◆◇◆◇◆

あの岩山を抜ける前と、グールパウダーを飲む前と、大して変わりがないと思っていた身体。けれど、虹の橋を渡るうちに、今までと今とではまったく違うのだということをそろそろ実感しはじめている。
どこがどうとはいえないけれど、確かになにかが違う。以前の感覚を引きずっているためか、違和感が常に張り付いてはなれない。女神を内に宿していたとはいえ、今まではどれだけ普通に生きてきたのか。彼と以前の自分がどれだけ違うイキモノだったのか、彼と今の自分がどれだけ違うイキモノなのか、そんなことをつきつけられる。
他に方法がない以上、何度同じ選択を迫られても、同じことをくり返すけれど。
引き返せない道を突き進んでいることをふと実感してしまえば、気遣ってくれる彼が哀しい。嬉しいけれど、哀しい。

すべてが終わったあとの彼に、自分は寄り添うことができない。その資格を自分で手放した。
わかっていて選択したけれど、本当にそうだったのか。
他に方法がなかったなんて、それは本当なのか。
その事実が、哀しい。――世界を崩壊させたくない、その願いをあきらめられないからこそ、なおさら哀しい。全部が終わったら自分のわがままに巻き込んでしまった彼と、別れなければならないことがわかっているから、なおさら哀しい。

埒の明かない思考に捕らわれていると自覚していて、それをどうにもできなくて、ああ、哀しいというよりも悔しいのかもしれない。

◇◆◇◆◇◆

洞窟を抜けて今まで歩いて来た道を、反対がわにのびるまっすぐなみちを、交互に眺めやる。ビフレスト、虹の橋。きらきら眩く美しい通路は、二人以外誰もいないからか、美しいけどひどく淋しい。
「……先が、見えませんね。ずいぶん歩いてきたように思うのに」
「なんか落ち着かないから、とっとと抜けたいよな」
「きれいなのに」
「だからこそ、だろう?」
「そういういうもの、でしょうか……ああ、ルーファス」
「うん?」
「身体は大丈夫ですか?」
「ああ、それは平気だよ。洞窟抜けてからあんな苦しかったのが嘘みたいに楽になった。
アリーシャは、どうだ?」
「多分、平気……です。痛くも苦しくもないし、虚脱感もないですし」
「……そうか」
――それはよかった、のか?
自分のつぶやきに疑問符をくっつける彼に小さく笑って、もう一度、今まで来た道とこれから行く道を眺めやる。

半身だった女神は、天界のことについてあまり多くを語らなかった。その必要がないと思っていたのだろうし、話してくれていたところで自分がそれを聞いていたとは限らない。この事態を予測できたなら、いろいろ訊ねられたのに。今となってはどうしようもないことを思って、ただ闇雲にきらっていただけの幼い自分が悔しい。
ともあれ、だから、彼女は天界についてほとんど何も知らない。

「ここを抜けたなら、どうするんですか?」
「え? ああ……ユグドラシルの頂上で、オーディンは叡智を得て主神に足るちからを手に入れたらしい。猿真似で芸がないけど、ヤツももとはオレと同じハーフエルフだ。同じくユグドラシルの頂上に行けば、オレも叡智を得られると思う」
「叡智……」
「まあ、神は人間と違って寿命がないから、基本的に書物なんかで知識を伝えようって発想がないんだよな。伝聞なんて根拠が危ういもん信用しろなんて無茶もいいとこだけど、他に方法がないんだよ」
「あの、別に信用していないなんて……疑っているわけじゃ、ないんですけど」
「いや、実のところオレがいちばん不安なんだ」
なにもない平坦な地面? に並んで腰をおろしていた彼が、困ったようにつぶやくと膝を抱える。
「オレが主神に成り代わるなんて、なあ。
ユグドラシルの頂上、たとえ行ったところで何があってどうやって叡智を手に入れるかなんて、分からないし。他に方法がないから仕方がないけど、いや、今さらこんなとこでごねてもしょうがないけど。行くとなったら全力尽くすけど」
「大丈夫です、ルーファスはわたしがサポートしますから。だから無理いってここまでついてきたんですから」
「……うん、頼りにしてるよ。アリーシャはいろいろをオレに賭けてここまで来てくれたんだ。ここでオレが弱腰になってケツまくって逃げたら、きみが一番割を喰うんだもんな」
「わたしのことなんて、気にしなくていいんです」
彼女の悩みは彼女のうちで完結しているから、自分でそう知っているから。
ちゃんと笑えただろうか。ここまできて、彼女を、ただの人間を気にしてくれるやさしい彼に、不安を感じさせない笑みを浮かべられただろうか。
「わたしは、わたしのやりたいことだけを選んでここまできました。ルーファスまでそれに巻き込んで、それでもわたしは後悔なんてしていないんです。人間のわたしは神になれない、だからハーフエルフのあなたに全部を任せようと、押し付けようとしているんだから。
ルーファス。あなたはわたしをうらんでいいんです。余計なことに引っぱり出した、ただの人間のエゴを振りまくわたしのことなんて、気にしなくていいんです」

◇◆◇◆◇◆

「……冷たいことを言わないでくれよ」
困ったように笑う彼が手をのばして、その大きな手に頬を包まれて、彼女は目を伏せる。まっすぐに彼を見つめることはできなかった。彼が何を言っても、自分の中に彼に対する負い目がある以上、無邪気にまっすぐに彼を見つめることは、できない。
「きみがそうしたくてこの道を選んだっていうなら、オレだってきみの願いを叶えたくてここまで来たんだ。弱気で逃げてばっかりのオレが、けど、ここで逃げたらもう逃げ場がなくなるんだよ」
「……ルーファス、」
「きみに、そうやって名前を呼んでもらいたいんだ。きっと、ただそれだけなんだ。たったそれだけのためにがんばりたいから、きみに、オレのそばにいてほしい。
キミを護りたいって言えればいいけど、多分この先それは無理だから」
「いいえ! ……いいえ。そういってくれて、嬉しい。ありがとうルーファス」
「こちらこそ、ありがとうな。アリーシャ」

ここは天界で、神々の世界で、どんな願いだって叶うはずの夢の国のはずなのに。
生者が夢見るほど、ここはそんなに素晴らしいところではなくて、
……自分の願いを叶えるためには自分で足掻くしかない、
そんな、そこは、地上と変わりない場所だった。

―― End ――
2009/01/30UP
近い近い空の向こう / 夢見る唄で5のお題_vp2ルーファス×アリーシャ_
OFP
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空際 [近い近い空の向こう]
[最終修正 - 2024/06/17-13:08]