黒い、まるで闇を固めたような黒いつややかな毛並み、やわらかでしなやかで華奢な体躯。しらじらと夜の闇を照らす月のような金色の瞳、幼いながらすでに身に付けていた気品。
どこからか現れて、いずこかへ去っていった。
――そんな、猫がいた。
カルサアの町、路上にて。
「……マリアさん?」
不意に立ち止まったマリアに、栗色の髪の少女が不思議そうに首をかしげた。かしげながら彼女の視線を追ってその先に一匹の猫を発見して、すぐに疑問が吹き飛んで嬉しい笑顔になって、
「ねこ、かわいいですよね!! マリアさんも好きなんですか!?」
地球出身の少女にはきっと珍しい二股に分かれた尻尾の猫は、ただじっとマリアを見ている。マリアも瞬きさえ忘れたようにただじっとその猫を見ている。
「えと、マリア……さん?」
「……ええ、嫌いじゃない、わよ」
少女が再び大きく首を傾げるのに、どこか上の空で返事をして。
見つめ合いは継続したまま、けれどその翠の視線はどこか遠い過去を見る目になっていた。
――なーん。
まろい鳴き声にびっくりして、マリア――幼いマリアは勢いよく振り返った。目に映ったものが信じられなくて、ぱちぱちぱち、瞬く。
「……ねこ?」
――一体どこから入り込んだのだろう。ドアの開く音はしなかったはずだけれど、ひょっとして猫のサイズなら出入りできる穴があるのだろうか。
思ってマリアは、今日、つい先ほどから自分の部屋になった部屋の中をぐるりと見渡した。
……そしてなんだか馬鹿馬鹿しくなって、大きく肩をすくめてみる。
そう、ついさっきミラージュに案内されてこの部屋にはじめて踏み込んだのだ。そのミラージュが何も言わなかったので、この部屋が以前どういう風に使われていたのかマリアは知らない。客間ではない、クルーの私室用に存在する部屋。ここに以前誰が住んでいたのかも、ひょっとしてまだ誰も住んだことがないのかも、マリアは何も知らない。
――だから、マリアが部屋に入る前からこのねこはこの部屋にいたのかもしれない。
――このねこの部屋に、マリアの方が勝手に入り込んできたのかもしれない。
そう思ったら、なんだかそれが当たりのような気がしてきた。
改めてねこを見下ろしてみる。宇宙の黒をそのまま持ってきたような漆黒の毛並みは、見るからにやわらかくしなやかで手触りがよさそうだ。なぜか面白そうに好奇心いっぱいにマリアを見上げる金の瞳は、太陽というよりも星というよりも、月を連想させる。
――考えてみれば、こんなに至近距離に猫を見るのははじめてかもしれない。
――というか、これだけ間近に動物を見ることが、マリアにははじめてかもしれない。
マリアがかつて住んでいたあたりでは何しろ軍人と研究者が多くて、職業柄家にいる時間が少ないから責任が持てないからと、リアルのペットを飼う人はあまりいなかった。マリアの知る範囲では一人もいなかった。
マリアは動物全般が好きでも嫌いでもないつもりだけれど、少なくともバーチャルリアルの動物園には興味がわかなかった。学校行事に動物園見物とか何かそういう行事があったかもしれないけれど、興味がなければ記憶にも残らない。
これほど至近距離に動物と接することは、今までなかったと思う。
だから、きっとはじめてだから。
もっと近くでよく見たくなって、ひょいとしゃがみこんだ。そんなマリアにねこの方も興味津々、優雅にきれいに丸くなるとしげしげとマリアを見上げる。
「……ねえ、ここってあなたの部屋なの?」
動物全般には詳しくないから、猫に詳しくないから。だから、他の猫がどうとか猫の生態がどうとかはマリアには分からないけれど。
こうしてしげしげ見つめるねこはなんだか顔立ちが幼いように思う。子猫、というほど小さいわけでもなくて、でも大人でもなさそうだ。一匹で生きていくには幼すぎるだろうか、けれど親猫に甘えている姿も想像しにくい。
前知識が足りないのもあって、見ること以上のことはマリアにはまるで推測さえできない。
とりあえず、ひょこんと首をかしげる。
「うーん……でももしもここがあなたの部屋だったとしても、わたし他に行くとこないのよね。
やっとの思いでクリフとミラージュ説得したばっかりだから、今ここで、さっき案内されたばっかりの部屋が嫌だ、なんて言えないし」
マリアがクリフたちに拾われてから。親元に、親がいなくても親類縁者がいるところに彼女を帰そうと、躍起になっていた二人を見ていた。
そのマリアの言葉と物的証拠とで、親も親類縁者もいないことが分かってからは。今度はしっかり彼女を育ててくれる有識人を探し出そうと、がんばっている姿を見ていた。
まるで関係ない、偶然出会っただけの幼いマリアのために、クリフやミラージュたちだけではない、一生懸命に心砕いてくれるクルーたちを見ていた。
だから。
だから、ここに。顔も知らない立派な人のところへ行くよりも、クリフやミラージュのそばにいたくて。
懸命に説得して、ようやくここに居場所を確保したのに。下手なことを言ったなら、すぐにでも艦そのものから追い出されてしまう。やっぱりとかなんとか言われて、この場所から追い出されてしまう。
たとえそうでなくても、そうやって想像してしまうことは哀しい。
それは嫌だから、けれど「先客」を追い出す真似もしたくないから。
――そうやって理由を見つけて、
「……ね、だからわたしこの部屋に住みたいの。これからよろしくね?」
まじまじと、何が面白いのかひたすらマリアを見上げるねこの額を、ちょん、指先でつついてみた。ぴくんとはねた姿と、指先に触れた思った通りのやわらかな手触りに思わず顔をほころばせた。
ら。
なぜかごろごろとねこののどが鳴って、しゃがみこんでいるマリアの膝あたりにしなやかな身体がすり寄った。
何もかもがはじめてでやはりびっくりするマリアに、
――にー。
ささやくように鳴いたねこ。
――多分嫌われていないわよね? とマリアは小首をかしげる。
